突然の言葉に対する画伯からの返事は驚き以上に冷たさがあった。
「あなた金が無いのだろう、16ヶ月間も無収入だと言ったじゃないか」と。
長いこと秘密にしていた個人的金銭状況を何故画伯が知っているかというと、正月の会合で知り合いがバラしているからである。「著述業に転向した勇気は認めるが、こいつは肝腎の稼ぎが無い。いまだ収入ゼロが16月も続いている、ワッハハ」と言われてしまった。この時点で正しくは17月であるが、そんな訂正は意味がないので、再び思わず強弁してしまった。
「金なら何とかなる、実は年末に駅前の焼鳥屋サブちゃんでアルバイトしたんだ。その時焼け具合が絶妙だなんて常連からチップも貰っているから」と有りもしないチップまで出して、事実ねじ曲げても支払い能力の辻褄を合わせたかった。
「焼き鳥でたんまりチップ貰ったって、嘘じゃないかね」と競輪爺さんが出てきた。アカ競を読んでいるかと見えたが、しっかりやり取りを聞いていたのだ.
「そりゃ言えてるな、トンカツでは旨くあがったなってチップくれる客はまずいない。ビール一本で粘る客はいるけど」とは爺さんへのあてこすりなので、爺さんはアカ競に首をつこんだままだ。こうなったら金を見せるしかないと判断して、
「画伯、おれの財布を見てくれ。こんなに厚い、横にしたって倒れない。いつもこれくらいは入れてるんだ。俺って衝動買いするタチなんだ」確かにその日の財布は分厚かった。テーブルで自立している財布を横目に見ていた爺さんが「英世が多いな、諭吉をそれだけ集めれば立派なもんだ」と要らん批評を入れた。しかし画伯は人間ができているので「まあ気は心だな。諭吉もいくらか入っているし」と認めてくれた。
「全部で幾らになるかは気にしない。財布に入っている金全部と絵の三枚を交換、これがすっきりでいいや」とは画伯からのありがたい言葉。帰りの電車賃が気になったが、小銭があるしパスモなので戻れるだろう。潔く財布の中身を全て引き抜き、大小混じりの束にして画伯に渡した。画伯は束はそのまま、数えもせず白衣のポケット捻りいれた。私自身も財布の中身、何人の諭吉と英世が入っているか把握していなかった。
ただ爺さんが横から「数え無くっていいのかい」と口出したが、画伯は「良いのさ、これが絵を売るっていうものだよ」と。そして荷造りの麻縄をかけて「これで持っていってくれ」と。これが三部の傑作を購入した経緯です。
最後に画伯に頼み込んだ。
「画伯、せっかく来たんだからトンカツ定食を食いたい。私はもう一文も無いのですが、お願いします」と図々しく。
「ああ良いよ」の二つ返事で絵画とは対極にある丁寧仕上げの画伯トンカツを食べさせて貰えた。
塊からロースを切り分ける包丁刃立て、筋目を入れパン粉をまぶす手さばき、ガス炎の立ち方と大鍋油の煮えの見比べる目付き。油のなかに生カツを放り入れる手のかざし具合と手のカツ離れの瞬間。そして高熱の油に泳ぐカツののたうち。カツはジュウと叫びながら苦しみの息を吐き、泡が油にまわる。生カツの叫びを聞き泡の吹き上げを見ている画伯の目付きは、勝ち誇る影が伺えた。きっとトンカツを芸術の域にまで引き上げた矜持があるのだ。鍋を見下ろす目付きは真剣であり残虐でもあった。
いま大鍋の油プールでは、トンカツ三角形の頂点である水油転換の秘儀が進行しているのだ。すなわち生きていた豚の幸福な記憶、オカラなんぞを喰ってブイブイうごめいていた豚舎生活の記憶を肉と膏から吐き出させているのだ。その転換を90%に仕上げる分岐点を画伯が見極めているのだ。
揚げたて湯気の立つトンカツにソースをかけて熱々のご飯で食べた。同席の爺さんにも振る舞われて、彼の評が気に入った「旦那のトンカツは何度喰ってもウメエな。パン粉がカラってしてて、肉を噛むとジューとくるんだ」
私は爺さんの「ウメエウメエ」を心地よく聞きながら「当たり前だよ、何せトンカツ極意の水油転換90%なんだ」と一人納得していた。私は腹が減っていたのさ、2口目をがっつき頬張りながら、あまりの旨さで「分かった」と大声を出してしまった。その時分かったのは画伯の言葉「小説とはトンカツと絵の中間にある」の本意なのだ。それがこのトンカツ味とこの絵なのだ。そして「私の前にトンカツがありそれを私が喰っている。さらに私は左手で画伯の傑作を抱えている。だからトンカツと絵の中間に私がいる、中間とはこのことだ。トンカツと絵の間、トンカツと絵の間」と呪文の様にとなえ、一人納得した。
不思議な水紋に驚く雉の絵(一部)を付けました(終わり)
「あなた金が無いのだろう、16ヶ月間も無収入だと言ったじゃないか」と。
長いこと秘密にしていた個人的金銭状況を何故画伯が知っているかというと、正月の会合で知り合いがバラしているからである。「著述業に転向した勇気は認めるが、こいつは肝腎の稼ぎが無い。いまだ収入ゼロが16月も続いている、ワッハハ」と言われてしまった。この時点で正しくは17月であるが、そんな訂正は意味がないので、再び思わず強弁してしまった。
「金なら何とかなる、実は年末に駅前の焼鳥屋サブちゃんでアルバイトしたんだ。その時焼け具合が絶妙だなんて常連からチップも貰っているから」と有りもしないチップまで出して、事実ねじ曲げても支払い能力の辻褄を合わせたかった。
「焼き鳥でたんまりチップ貰ったって、嘘じゃないかね」と競輪爺さんが出てきた。アカ競を読んでいるかと見えたが、しっかりやり取りを聞いていたのだ.
「そりゃ言えてるな、トンカツでは旨くあがったなってチップくれる客はまずいない。ビール一本で粘る客はいるけど」とは爺さんへのあてこすりなので、爺さんはアカ競に首をつこんだままだ。こうなったら金を見せるしかないと判断して、
「画伯、おれの財布を見てくれ。こんなに厚い、横にしたって倒れない。いつもこれくらいは入れてるんだ。俺って衝動買いするタチなんだ」確かにその日の財布は分厚かった。テーブルで自立している財布を横目に見ていた爺さんが「英世が多いな、諭吉をそれだけ集めれば立派なもんだ」と要らん批評を入れた。しかし画伯は人間ができているので「まあ気は心だな。諭吉もいくらか入っているし」と認めてくれた。
「全部で幾らになるかは気にしない。財布に入っている金全部と絵の三枚を交換、これがすっきりでいいや」とは画伯からのありがたい言葉。帰りの電車賃が気になったが、小銭があるしパスモなので戻れるだろう。潔く財布の中身を全て引き抜き、大小混じりの束にして画伯に渡した。画伯は束はそのまま、数えもせず白衣のポケット捻りいれた。私自身も財布の中身、何人の諭吉と英世が入っているか把握していなかった。
ただ爺さんが横から「数え無くっていいのかい」と口出したが、画伯は「良いのさ、これが絵を売るっていうものだよ」と。そして荷造りの麻縄をかけて「これで持っていってくれ」と。これが三部の傑作を購入した経緯です。
最後に画伯に頼み込んだ。
「画伯、せっかく来たんだからトンカツ定食を食いたい。私はもう一文も無いのですが、お願いします」と図々しく。
「ああ良いよ」の二つ返事で絵画とは対極にある丁寧仕上げの画伯トンカツを食べさせて貰えた。
塊からロースを切り分ける包丁刃立て、筋目を入れパン粉をまぶす手さばき、ガス炎の立ち方と大鍋油の煮えの見比べる目付き。油のなかに生カツを放り入れる手のかざし具合と手のカツ離れの瞬間。そして高熱の油に泳ぐカツののたうち。カツはジュウと叫びながら苦しみの息を吐き、泡が油にまわる。生カツの叫びを聞き泡の吹き上げを見ている画伯の目付きは、勝ち誇る影が伺えた。きっとトンカツを芸術の域にまで引き上げた矜持があるのだ。鍋を見下ろす目付きは真剣であり残虐でもあった。
いま大鍋の油プールでは、トンカツ三角形の頂点である水油転換の秘儀が進行しているのだ。すなわち生きていた豚の幸福な記憶、オカラなんぞを喰ってブイブイうごめいていた豚舎生活の記憶を肉と膏から吐き出させているのだ。その転換を90%に仕上げる分岐点を画伯が見極めているのだ。
揚げたて湯気の立つトンカツにソースをかけて熱々のご飯で食べた。同席の爺さんにも振る舞われて、彼の評が気に入った「旦那のトンカツは何度喰ってもウメエな。パン粉がカラってしてて、肉を噛むとジューとくるんだ」
私は爺さんの「ウメエウメエ」を心地よく聞きながら「当たり前だよ、何せトンカツ極意の水油転換90%なんだ」と一人納得していた。私は腹が減っていたのさ、2口目をがっつき頬張りながら、あまりの旨さで「分かった」と大声を出してしまった。その時分かったのは画伯の言葉「小説とはトンカツと絵の中間にある」の本意なのだ。それがこのトンカツ味とこの絵なのだ。そして「私の前にトンカツがありそれを私が喰っている。さらに私は左手で画伯の傑作を抱えている。だからトンカツと絵の中間に私がいる、中間とはこのことだ。トンカツと絵の間、トンカツと絵の間」と呪文の様にとなえ、一人納得した。
不思議な水紋に驚く雉の絵(一部)を付けました(終わり)