平家の清盛への謀反のため、3人が硫黄島(鬼界が島)へ流されます。
やがて赦免の沙汰がありましたが、俊寛僧都が一人赦免にならず、他の二人が船で都に帰ります。
それを見送る俊寛の姿は、平家物語の描写の圧巻でもあります。
平家物語巻三、足摺の事より
舟出さんとしければ、僧都舟に乗りては降りつ、降りては乗りつつ。舟、とも綱解いて舟押し出せば、僧都、綱に取り付き、腰になり、脇になり、背の立つまでは引かれて出つ。
背丈も及ばずなりければ、僧都、舟に取り付き「俊寛をば遂に捨て果て給うか」とくどかれども、取り付きたる手を引きのけて漕ぎ出だす。
僧都、詮方なさに、渚に上がり、倒れ伏し、幼き者の母を慕うように、足摺をして「これ乗せて行け、具して行け」と喚き叫べども、漕ぎ行く船の習いにて、跡は白波ばかりなり。
いまだ遠からぬ舟なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都、高き所に走り上がり、沖の方をぞ招きける。
渚の高いところに駆け上がって、沖に出た船を慕う俊寛僧都の彫像です。
モニュメントの岩の上には俊寛僧都が脱ぎ捨てた草履が残っています。
平成9年に、中村勘九郎は歌舞伎の俊寛をこの砂浜で演じました。
左:流された島で暮らす流人たち。あばら家の裏は海岸線です。
右:実際の海を舟が島を離れていく設定の舞台です。
左:舞台では代々の役者が、最高の見せ場を見せるところです。
右:今もこの島では俊寛の慰霊の行事を伝えています。
浜の高台から、叫び続けた俊寛は、その場の砂浜で一夜を明かしてしまいます。
やがて赦免の沙汰がありましたが、俊寛僧都が一人赦免にならず、他の二人が船で都に帰ります。
それを見送る俊寛の姿は、平家物語の描写の圧巻でもあります。
平家物語巻三、足摺の事より
舟出さんとしければ、僧都舟に乗りては降りつ、降りては乗りつつ。舟、とも綱解いて舟押し出せば、僧都、綱に取り付き、腰になり、脇になり、背の立つまでは引かれて出つ。
背丈も及ばずなりければ、僧都、舟に取り付き「俊寛をば遂に捨て果て給うか」とくどかれども、取り付きたる手を引きのけて漕ぎ出だす。
僧都、詮方なさに、渚に上がり、倒れ伏し、幼き者の母を慕うように、足摺をして「これ乗せて行け、具して行け」と喚き叫べども、漕ぎ行く船の習いにて、跡は白波ばかりなり。
いまだ遠からぬ舟なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都、高き所に走り上がり、沖の方をぞ招きける。
渚の高いところに駆け上がって、沖に出た船を慕う俊寛僧都の彫像です。
モニュメントの岩の上には俊寛僧都が脱ぎ捨てた草履が残っています。
平成9年に、中村勘九郎は歌舞伎の俊寛をこの砂浜で演じました。
左:流された島で暮らす流人たち。あばら家の裏は海岸線です。
右:実際の海を舟が島を離れていく設定の舞台です。
左:舞台では代々の役者が、最高の見せ場を見せるところです。
右:今もこの島では俊寛の慰霊の行事を伝えています。
浜の高台から、叫び続けた俊寛は、その場の砂浜で一夜を明かしてしまいます。
当時ニュースか何かで見た覚えがあります
実際の場所で歌舞伎をやろうという発想が素晴らしいですね
当時でも、島に人は住んでいたのですね。
歌舞伎の俊寛と平家物語の俊寛は少し内容が違うところがありますが、足摺のシーンは同じですね。
島の住人についても平家物語には記載がありますが、土壌のない火山島では、田もなかったし、着る衣服も粗末なものだったようです。
最近の別の小説では、残された俊寛は、村のボスになったというのもありますね。
そうでしたね。ここが舞台でした。
時代的背景を考えますと、京の都
からは地の果てという感じの所で
あったでしょうから、なんとなく
俊寛の気持ちを察してしまいます。
佐渡にもたくさんの流刑者がなが
されてきています。
平家物語では、俊寛は僧都の位まで、清盛のお陰で出世したのに、平家打倒の謀反の主役になるとは不思議なことである、と書かれています。
しかし、清盛に逆らったことで、東山の鹿の谷の俊寛山荘跡に立っている碑には、忠臣俊寛と刻んであります。