醤油の発祥地湯浅には、湯浅党と呼ばれる武士の一団が、山城を構えていたことがあった。
南北朝時代に、南朝方に組するなどして、城攻めに遭い、遂にその姿も無くなった。
しかし、その後も、村の郷士たちは湯浅党を名乗る武士団として、各地で転戦をしていたらしいが、組織的なものではなかったようである。
近年になって、山城のあった丘の隣りに、立派な天守閣が聳える平成の城が出来た。
それは地域の財産として、国民宿舎となった城郭である。2箇所の隅櫓は、それぞれ浴場になっており、各部屋の窓からの眺めは大変よろしい。
左:天主閣と右が浴場の隅櫓である。日帰りの温泉になっている。
右:中庭越しに見える小山が、城があったとされる場所である。
左:中庭には手入れの行き届いた前栽になっている。
右:国民宿舎としての入口に立つ湯浅城の石碑と信楽の狸。
天守閣からの眺望は、紀伊水道を望んでいる。この左方の町並みが広川町であり、有名な稲村の火の資料館がある。
天主の最上階の部屋には、湯浅の郷士が、家に伝わる鎧装束などを展示している。町の博物館でもある。
湯浅党の調査結果の資料が展示されている。惣領を取る家が無かったので、それぞれが徒党を組み、戦国の世を生き抜いたのかも。
城址の発掘もそれほど進んでいないが、この場所一帯が城跡であった。
湯浅、広川と街中を、熊野古道が貫いている。史跡や、案内板などが次々とあり、街道を辿る旅人のための、休憩所も出来ている。
稲村の火のおじいさんの名を知りました。彼は濱口梧陵と言います。命より大事な稲に火をつけて、村人を山に呼び寄せ、津波から人命を救った話はここの海岸だったとは。
南北朝時代に、南朝方に組するなどして、城攻めに遭い、遂にその姿も無くなった。
しかし、その後も、村の郷士たちは湯浅党を名乗る武士団として、各地で転戦をしていたらしいが、組織的なものではなかったようである。
近年になって、山城のあった丘の隣りに、立派な天守閣が聳える平成の城が出来た。
それは地域の財産として、国民宿舎となった城郭である。2箇所の隅櫓は、それぞれ浴場になっており、各部屋の窓からの眺めは大変よろしい。
左:天主閣と右が浴場の隅櫓である。日帰りの温泉になっている。
右:中庭越しに見える小山が、城があったとされる場所である。
左:中庭には手入れの行き届いた前栽になっている。
右:国民宿舎としての入口に立つ湯浅城の石碑と信楽の狸。
天守閣からの眺望は、紀伊水道を望んでいる。この左方の町並みが広川町であり、有名な稲村の火の資料館がある。
天主の最上階の部屋には、湯浅の郷士が、家に伝わる鎧装束などを展示している。町の博物館でもある。
湯浅党の調査結果の資料が展示されている。惣領を取る家が無かったので、それぞれが徒党を組み、戦国の世を生き抜いたのかも。
城址の発掘もそれほど進んでいないが、この場所一帯が城跡であった。
湯浅、広川と街中を、熊野古道が貫いている。史跡や、案内板などが次々とあり、街道を辿る旅人のための、休憩所も出来ている。
稲村の火のおじいさんの名を知りました。彼は濱口梧陵と言います。命より大事な稲に火をつけて、村人を山に呼び寄せ、津波から人命を救った話はここの海岸だったとは。
村人のために咄嗟に大切な稲を燃やすなんて凄いですね
地震の後、潮が海岸線から引いていくのを見て、津波を予見し、裏の山手にある稲を干す垣(いなきとか言いますが)に火をつけた話が、印象に残っています。
東北地方だとばかり思っていました。
当時の年貢米を収める百姓にとって、命より大事な米だったことも合わせて知りました。
津波の恐さも、潮が引くことも知った少年時代でした。