ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔昭和家庭史〕昭和20年6月 安藤鶴夫氏からの手紙

2006年10月12日 | 昭和家庭史
安藤鶴夫さんから光男宛の手紙

啓 思い掛けないお便り拝受 近頃なかなかに嬉しい事でした 
土浦へおゐでの事はあれから一度焼け跡をお訪ねした折に承知しましたがその後社が罹災したりして(注1)全く大困難にぶつかり思い乍ら失礼しました
焼け跡を未練たらしく掘っくり返すのもいやで其後電車で一、二度富坂を通ったばかり------
しかしなにか脱帽したいやうな感慨に打たれました 社の罹災は我が家がやかれた(注2)以上の悲壮なものでした
仕事場と住居と結局一緒にやかれえたわけのあなたのご心中は深くお察します
お仕事も直接戦列に近づいた様子でなにかとまた大変でせう 何卒御敢闘願ひます
先日三宅正太郎氏にお逢いした折”いまの状態は綱引きである、どっちか弱い気で綱の手を先にゆるめた者が負けだ”といわれてゐましたがまことに至言と感じ入りました 
それにしても土浦とは少しうるさいですナ 坊やはどうしてゐるか時々家でお噂をしてをります 
この間掌話にあなたの事をほんの少しモデルにしたのがお目にとまりました由 汗顔 里見流のいい短篇になる材料だと思ひましたが・・・・
扨て 小生一家其後はすこぶる安泰、やうやく安心してこの頃は社務に精励致してをります
四月二十九日迄 母と小生は護国寺のほとりなる芳河士庵といふ日本画家の部屋に置いて貰い、桶川に八畳間の二階借りをしましたので汽車のそろそろ空きはじめを覘って母を桶川へ背負って運びました 父はそれ迄日本橋------さういえば御心配をお掛け致しました
------四月二十九日から入替りで芳河士庵に五月二十八日迄在京しました 
その間はる子が赤ん坊の時ゐてくれたねえやが父母のために救ひの手を差し延べてくれて、二十九日に桶川からまた一里ばかり奥の小針村内宿といふ農家に父も母も送り込みこれにて小生 大東亜戦争以来はじめて落着けました 
一面の田んぼを前にし後ろには林あり小川ありまた田んぼといふわけで白鷺の飛ぶさまもおばあちゃん寝乍ら見えるといふ平和境でまたB助は一度も御通過にならぬといふとにかく有難い事になり小生は毎朝七時半発の上野行で数寄屋橋の假社へ通勤、四時頃帰ってきます 
今後は分かりませんがとにかく目下の処は------この間中の東京のことにしてさういっても全く夢のやうに思はれます
休みには自転車二台に分乗して父母を家中で訪れてをります
こちらもおッかあと結婚以来はじめて親達のゐない自分達だけの家------假住居八畳にもせよ------なので おッかアもはり切って働いてをります
通勤時間家から社まで約一時間半ですが都電いらいらして待つ癇癪もなく汽車中は読書の進む事頻りで罹災以来 文楽、歌舞伎関係の絶對必要書は再びまとめて入手しましたが、他の読書用は一切友人から借りる事に決め早速この期間嘗って名作と思ったものも再読に充てる事となり志賀直哉、里見、水上瀧太郎、谷崎潤一郎、内田百聞、川端康成などの殆どを読み返すという旺盛さは学生時代さながらであります 
近く瀧太郎を完了して海外文学に變じます 
第一には「カラマゾフ」を片付けるべく既に鵠沼の友人から岩波文庫が到着してをります「暗夜行路」は矢張り最も感動しました 現在では文学も演劇もないのですから現在に目をふさぐのではなく”立派な日本”をもう一度歩いてそれから潔く死場所を選ぶ------。さういった覚悟と楽しみで書を読んでをります 
明日は鎌倉を訪ね里見さんに次回の小説を承諾して貰はうと思ってゐます 
例の演劇雑誌ももう四冊位で紙なくなり日本から演劇雑誌が当分なくなります その代わり七月の末(多分の帝劇)我々の国民演劇推進運動第一回公演の広告が出たら遠くから拍手して下さい 
情報局後援のもとに楠山、久保田ら我々r十一名が演劇戦線を死守して東京にノロシを挙げるべく目下どしどし会議を進めてゐます 新聞に発表した時お送りしませう 
これから移動演劇の依嘱で一本久振りに脚本を書き出します 現代語による狂言を書きますナド々小生も元気ですから他事乍ら御安心下さい おっかあ(注3)やはる子(注4)からも皆々様へくれぐれもよろしく またおたよりを下さい 敢闘を祈ります(注5)



(注1)東京新聞被災
 東京新聞は戦時下で唯一の夕刊紙だった。
 昭和二十年五月二十五日、都心大空襲。この夜、東京新聞は猛火に包まれた。

 「蒸し焼き同然の本社の余熱がさめるのを待って内部に入ろうとするが、階段は崩れた瓦礫(がれき)でふさがれ登れない…三階編集局をのぞくと机、いすは 元のまま灰になっていた。写真現像室、電信、速記、当直室など焼けただれたコンクリートが折り重なり踏み込む余地もない。工場の輪転機は油が燃えて火をか ぶり、用紙のストックも丸焼けだ」

 東京新聞はすべてを戦火で失い、壊滅した。
(東京新聞 日々激動 64 空襲激化から)

(注2)我が家がやかれた
東京小石川富坂周辺の空襲は昭和20年4月13日から14日未明にかけての時間帯で安藤鶴夫氏の家も、光男の家も同時に空襲に遇い被災した。
娘はる子さんは、この記録を綴っている。

昭和20年(1945年)
四月十三日、東京大空襲で富坂の家を焼いてしまう。
父は半身不随の祖母を背負い、祖父(竹本郁太夫)と三人で、音羽の富取芳河士家の約一か月居候の身となる。
富取さんは「太棹」(フトザオ)という雑誌を出しながら素人義太夫の世話人でもあり、我が家へは始終見えていた。
竹本郁昇の名を持つ父は、前座の語り手 がなく困っている富取さんを助け、自らその役を買ってでた。
プログラムに郁昇の名があると、開演前からお客さまの集まりがよかったと、母はいう。そういえ ば、父と母の出会いも義太夫が縁であった。
母は祖父の弟子だった従姉妹夫婦に伴われて、吾妻橋の安藤家で父と初対面。たのもしくて尊敬できるひとという印 象だったと、いまものろ気をきかされる。
五月の末、桶川へ疎開。
父はここから一時間十五分汽車にゆられ、都新聞へ通った。
あるとき空襲に遭い、汽車から降りて避難した。敵機が去ったあと気がついてみると、ススキ一本の陰にかくれていたという。
(「父 安藤鶴夫の想い出 朝顔の苗 夕顔の苗」 安藤はる子 論創社)

(注3)おっかあ(鶴夫氏 ご内儀)
平成18年10月7日のて安藤はる子さんから小生宛の書簡でご母堂について
「残念ながら、今年6月12日、92歳で亡くなり、伝えること(安藤鶴夫さんと光男との親交)ができませんでした。」とあった。

(注 4)
はる子さんの名付け親は作家の久保田万太郎氏。
はる子さん当時3歳。
母のキミが「可愛いい子」とその思い出を周囲によく語っていた。

(注5)安藤鶴夫さんとは


■■ジッタン・メモ
あんつるさんから父光男宛の書簡は都新聞(東京新聞)の原稿用紙に墨書きした3枚に及ぶ内容だった。
旧字あり、達筆で判読しがたい部分もあったが、どうやら読みこなせた。
この書簡の扱いについて、いったんはご遺族にお返ししたほうがよいのではないか、と思い安藤鶴夫の遺品を収集しているさいたま文学館の関係者に相談した。
館側は書簡の内容が所蔵中の安藤鶴夫氏のさいたまでの資料事跡を埋める貴重なものがあるとの判断の上で、「寄贈していただければ嬉しい」とのことだった。
もとより、コピー部分が手元に残ればよいので、私のほうには異論はなかったが、いったんはご遺族にお渡しすべきと考え、電話連絡の便宜を依頼した。

ご息女で作家の安藤はる子さんはジッタンより3歳上の人であったが、電話は1時間に及び富坂のこと、父とあんつるさんとの交友など多岐に渡り、はじめての電話ではあったが旧知のような会話がすすんだ。
また、あんつるさんが戦後読売新聞の嘱託社員に居られたことにも、不思議な暗示を受けた。
本日、平成十八年十月十日付けで、はる子さんからお礼状をいただいた。
その中で、この書簡の扱いについて
「嬉しいお心は、すべて父の仏前に供えさせて頂き、報告させて頂きました。
しばらくは私の手元におかせて頂いた後、コピーで我が家に残し、本物は、さいたま文学館に寄贈させて頂き、富坂での父の人生のひとコマとして、大事に保存して頂こうと存じます」
とあった。
60年前の手紙に、心と心は通じるものだ。
感謝、感謝の想いが湧いてくる。


追記 校正のこと
安藤鶴夫さんの手紙は「墨書3枚に及ぶ内容で、旧字あり、達筆で判読しがたい部分もあった」が、どうやら読みこなせたと書いたが、やはり読みこなせていなかった。
社の先輩に校閲部長をつとめたNさんがいる。
正確を期したいのでコピー文を送って見てもらった。
読みこなせていなかった部分の校正直しの指示をいただいた。
わが非力さを悟り、先輩に敬服した次第を記しておきたい。


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