そよかぜ 墓場 ダルシマー
~モーツァルトを聴きながら年をとった
僕には人の苦しみに共感する能力が欠けていた
一所懸命生きて自分勝手に幸福だった
僕はよく話し良く笑ったけれどほんとうは静かなものを愛した
そよかぜ 墓場 ダルシマー ほほえみ 白い紙
いつかこの世から消え失せる自分…
だが沈黙と隣り合わせの詩とアンダンテだけを信じていていいのだろうか
日常の散文と劇にひそむ荒々しい欲望と情熱の騒々しさに気圧されて
つまりきみは
どけよ猫
ザルツブルグ散歩 抜粋
~この世のことを知らなければあの世を夢見ることもできないだろう
だが愛しているつもりでぼくはいつも人を怒らせ悲しませる
この世を知るっていうのはそういうことなのか
ふたつのロンド
なみだうた
~初夏の日差しが若葉に照りつけ枝が風に揺れている
季節がめぐってくるたびに何十年も見慣れた光景だが
その光景が僕にもたらす感情はいつまでも新しい
悲しみとか寂しさとか喜びとか哀れとか
人は感情をさまざまに名付けるけれど
言葉で呼んでしまってはいけない感情もある
こころとからだから溢れてくるというより
自分が隠れた大きな流れにひたされているような気持ち…
そんなときぼくは知るのだ
涙の源は人が思い及ばぬほどはるか遠くにあるということを
人を愛することの出来ぬ者も
アリゾナのモーツァルト
オレゴンの波
問いと満足
ラモーが小鳥の羽ばたきを囀りを聞いて
このカヴァティーナを
コーダ
浄土
地べた
Hotel Belvoir, Ruschlikon
Quai Braudy
この地球上にうごめく人間の数と高みからぼくらを脅かす星々の数と
そのどちらか多いのかは知らないが
星々も人間も多すぎてぼくにはよく見えないから
心は今この冬の青空のようにからっぽに透き通るひとつのいれもの
ぼくの目はそこにありふれた情景を映し出す
~ぼくはただここを通り過ぎるだけ ひしめく星々と人々の間を
TGV `a Marseille
目を覚ました娘が隣に座った青年にほほえみかけた
そのほほえみを支える物語をぼくは知らないが
口をつぐんで互いの目の中をのぞきこむ時のあのやすらぎ
その一瞬のためにこそ人は語りつづけるのだとしたら
この今がぼくらの共に過ごした年月と釣り合っていることを
あなたも認めてくれるにちがいない
そのために費やされた言葉をすべて忘れてしまったとしても
それらの言葉のもたらした感情は哀しみも喜びも怒りもひとつに
この束の間を永遠に変える力をもっている
モーツァルトを聴く人
モーツァルトを聴く人はからだを幼な子のように丸め
その目はめくれ上がった壁紙を青空さながらさまよっている
まるで見えない恋人に耳元で囁きかけられているかのようだ
旋律はひとつの問いかけとなって彼を悩ますが
その問いに答えることは彼には出来ない
何故ならそれはすぐにみずから答えてしまうから
いつも彼を置き去りにして
あまりにも無防備に世界全体に向けられる睦言
この世にあるはずのない優しすぎる愛撫
決して成就することのない残酷な予言
あらゆるnoを拒むyes
モーツァルトを聴く人は立ち上がる
母なる音楽の抱擁から身を振りほどき
答えることの出来る問いを求めて巷へと階段を下りて行く
音楽は人を特別な魂の状態にする―。谷川俊太郎がモーツァルトを中心に音楽を詠んだ詩集。