名文に泣く。井上靖の隠れた珠玉の短篇集
若くして妻を亡くし、再婚の話を持ちかけられても首を縦に振らない春吉。亡き妻に対する穏やかな、しかし深い愛情。夫婦の可笑しい小さな旅の想い出を、ひんやりとした気持ちでたどってゆく―(「結婚記念日」)。人生のある一瞬の愛がもたらす、大きな意味。ごく平凡な三組の男女のささいな出来事を通して、それぞれの愛のかたちを描く。無駄を削がれた美麗な文章と心理ドラマの妙に心打たれる、井上靖の傑作短篇。
昭和25年、26年の愛をテーマにした3作品。
愛のもつ複雑で微妙な、曖昧模糊とした観念に、それぞれの視点から、惹きつけられる作品ばかりでした。
「結婚記念日」~あまりにもたわいないささやかは夫婦の関係。
何処にもドラマはなく、ささやかな衝突をくり返しながら、お互いを確かめながら生きてきた一組の夫婦。ありのままに淡々と妻の死後、回想する夫の姿「たまらなく切なくいじらしいものを感じた」瞬間…。つぶさに冷静に捉えた文章が冴え渡ります。
「石庭」~京都新婚旅行で訪れた過去に別れのドラマが会った場所。
龍安寺石庭。「清潔簡素な庭の持つ何かきびしいものが、それを見ている者の心を打ってくるのだった。それは美しいとか、きれいだとかいう言葉で表現できるものより、もっと高次な精神の世界の何かであった」
三度訪れた石庭での三度の別れの物語。
世俗に流されず純粋に立ち向かう勇気を与える、冷たいほどの美しさの石庭の前で、人は、曖昧に過ごすことを否定し、反省し、正直になるのかもしれない、それが別れを意味しても…。
「死と恋と波と」~熊野灘に面したホテル。偶然であった二人。
女は愛情を失い。男は汚名のため、自殺を遂行すべく訪れた場所。
「岩礁と岩礁の間には、それにぶつかる波濤が幾つもの潮の渦を作っている。
青い藻が時々、その渦の中に見えたり、かくれたりした。しばらくそこに立ったまま、孤立傲岸な渦紋のマスクに見惚れていた。暗褐色の巌の肌えと、回想のこの世の色とは思われぬ鮮やかな碧りは、ふしぎに美しい対比を見せていた。」
死にふさわしいその場所から、二人の生へのドラマが始まろうとしている。