癒しの庭Ⅲ

集おう癒しの庭へ

今日はのんびり、庭師は庭に・・・!

2006年09月02日 | Weblog

 研修視察も終わったので、久々にゆっくりの日です。午前中は庭木の刈り込みをしました。

             

  昭和47年におじいちゃんが我が家を新築した時に、記念に植えた「ツゲ」の木です。

   頭が大きすぎるので、大分刈り込みました。まだ上の枝が大き過ぎるので、今後(一気にはできないので)年次で修正していこうと思います・・・

 

                   

   昨日の研修視察旅行の最初は、大鰐町(青森県)の大円寺でした。この真言宗のお寺さんの御本尊は大日如来であるとされています。(大正9年には国宝「大日如来」の指定を、昭和27年には国の重要文化財になっています。)

                    

  正面の黒い仏様が大日如来様です。しかし、この仏様は実は大日如来様ではなく阿弥陀如来様です。

   (その下が御不動様でその右下が大日如来様、左下が愛染明王様です)

  印相(手や指の組み方)が弥陀定印で、この印相は阿弥陀如来しか組みません。

  何故、阿弥陀如来が大日如来として信仰されてきたかは謎と

されていました。私も本当に不思議でなりませんでした

   昨日初対面の和尚様に解説のお願いをしたとき「何故、阿弥陀如来が大日如来として信仰されてきたのかということと、平泉の藤原清衡が外が浜(青森市・油壺付近)までの道(奥大道とか奥の大道という)を作った時、その道は大鰐を通っているので、大日堂(道を守る)として祀られていないかどうか」についても説明をお願いしました

  和尚様は私の方を見て丁寧に説明して下さいました。

    「平安時代の初期では、浄土信仰(本尊は阿弥陀如来)が行われていましたが、最澄・空海の天台・真言宗の密教(本尊は大日如来)が広がり、大日信仰の中でこれまでの阿弥陀如来も大日如来として信仰された」というのです。「藤原文化がこの地に大日信仰をもたらしたのでしょう。新しくコンクリートでお堂を造る前は木造の大日堂として祀れれていた」ということでした

  昨日次の文章(大鰐町史執筆委員長船水潔氏)を見つけました。

  「なぜ阿弥陀如来を大日尊と称したかについて、元禄15年(1702)の『真言行人縁起』に、本尊阿弥陀といえども、俗称大日、即ち不二の瑞(しるし)現る。故に今に於いても大日と称し、自他これを信じると記されている。このように密教寺院では、阿弥陀如来を大日如来とみなすことに不思議はないという。」

  この文章を読んで、先の下調べ時にこの大円寺の受付(お札売り)の方にこの謎について聞いた時「大日如来様はお不動様に姿を変えたり、阿弥陀様に姿を変えたりすると和尚様より聞いています」と話されたのですが、それはこうした意味だったのかと納得しました

  我が師の大先生にお聞きした時、「天台宗には阿弥陀如来と大日如来の合体論があるよ」と教えて下さいましたが、元禄記には確かに阿弥陀如来を大日如来とみなして信仰することが行われていたのだと思います。それほどに密教信仰が強かったのだと思います

                    

    この和尚様はとても面白い方です。陽気な?方です。

    ここではこうして拝むのですよ、と大日如来様(阿弥陀如来様)に向かって、神様を拝むように大きな音で両手を打ったのです。誠に不思議な光景でした。そして笑いながら「向こうで(本堂で)お葬式をする時は手を合わせて拝みますよ」と話したのです。

  ここはお寺、和尚さんが手を打って、仏様を拝んだのです。

 旧比内町(現秋田県大館市)独鈷の大日堂では、神主さんが手を打って、仏様(大日如来様)を拝みました。

   鹿角市小豆沢の大日堂は、大日霊貴(おおひるめむち)神社となっており、神主さんが手を打って拝みます。参拝の方も手を打って拝みます。

  弘前市の久渡寺では、和尚さん(真言宗)が祈祷をし、参拝者は手を打って、オシラ様を拝みます。

   どうにも変ですが、明治新政府の神仏判然令(1868年3月)が、そしてその後の廃仏き釈運動 の産物なのではないでしょうか・・・

    この和尚さんは説明が終わったら、襖絵を見て下さいと案内して下さいました。

  最近檀家さんの寄付でお寺の改修が行われ、白神山地や十和田湖や、奥入瀬などの襖絵を油絵の画家に描いてもらったのだそうです。

   なかなかに素晴らしい絵で、大変素晴らしい和尚様でした