まず、我々の住む日本列島の住民が、何を頼りに生きているのか観察すると、第一に無意識の競争心が浮かび上がる。
他家よりも立派な家を建てたい。他人より高級な住宅に住みたい。他人の嫁より美しい妻を得たい。他人よりイケメンな夫と結婚したい。他人よりも美しく見られたい。
他人より多く財産を持ちたい。他人より高い車に乗りたい。他人に自分の姿を自慢したい。
こうした競争心からくる要求は、序列を人間価値の基準と定めた儒教による思想的影響が非常に強く、儒教の影響を受けなかった国の価値観と比較してみればよくわかる。
儒教国である中国、朝鮮半島、日本、ベトナムでは、競争意識やイジメが強いのだ。しかし儒教が伝えられなかった南太平洋諸国は違う。
19世紀末、パリの証券マンだったゴーギャンは、金がすべての資本主義による欧州価値観に嫌気がさして、本当の幸せとは何かを探しにタヒチに渡り、そこで人生の真実を見つけた。
やがてゴーギャンは、「我々は、どこから来てどこに行くのか」という思索を描いた生涯の代表作をものにした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/13bc84490ff86da51c7f37cab90e8bab421614ed
タヒチの人々は、人の笑顔、人が喜ぶ姿を至上の価値と感じている。人間関係の一番の幸せはセックスから生まれると信じている。人々は、喜びのために生きている。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2013/03/1139.html
今の日本人はどうだろう? 他人を見下すために生きている人が多いのではないか? それが、幼い頃から人々を競争に駆り立ててきた儒教教育システムの結果である。
我々は幼い頃から、お絵描き、かけっこ、テスト、あらゆる場面で他人との競争を強いられ、点数をつけられ、他人より上に行くことが至上の価値と思い込まされてきた。
そうした競争意識は、墓場に入ってまで生き続け墓石の大きさまで競っている。
だいたい生涯を競争意識のなかで過ごし、墓石にまで競争にこだわる人たちは、どんな人種かといえば、それは第一に金持ちであり、政治家や組織長など特権意識の強い人達であり、権威が三度のメシより好きな人達である。
人生の価値が、「他人を見下すこと」と洗脳されている人たちといってよい。
でも、そんな人達はタヒチなどポリネシア・ミクロネシアの人々にはほとんどいない。多くの人達が、他人の幸せそうな姿を自分の喜びと捉えている。
だが、儒教国の発祥地である中国では、滅多矢鱈に序列競争意識が強く、権力を得れば必ず利己的に自分の地位や蓄財しか考えない。
儒教国では、権力を得た者は必ず独裁権力と蓄財を求めて腐敗に走るといってもいい。日本もその例外ではない。
ロシアが儒教国のように腐敗している事情は、欧州資本主義と権威主義の延長にあるからだが、アシュケナージユダヤ人による金融資本主義と、12世紀以降の「タタールのくびき」がもたらした戦争と強奪による世界観も原因になっている。これは、いつか別に書くつもりだ。
今回の表題は、「我々は何を頼りに生きてゆくべきか」ということで、これから予想される凄まじい戦争と気象異変がもたらすであろう生活苦のなかで、どのような哲学が必要なのか考えてみたい。
あらゆる生活経費、食料品の高騰は、年金生活者を中心に、日本人の生活を激しく揺さぶっている。
なぜ生活苦かといえば、これまでの消費スタイルでは、とても生活水準を維持できないからだ。1990年に較べて2023年の生活水準が4割下落させられていることをすでに書いた。
http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6029044.html
これまでは、直接生活を支えていない、遊興交際費、家具備品購買などの支出を控えることで、とりあえず毎日の食生活と健康維持を直接損なうことはなかったが、これほど極端な物価上昇があると、もう食生活に手をつけないわけにはいかない。
年金老人たちの貯蓄にも不安が見え始めている。もう一切の贅沢ができない。
もしカネが底を尽けば、新自由主義政党である自民党や維新の「自助=自分でなんとかしろ」方針では、自殺以外の選択肢がない。
世の中、異様に殺人事件が増えていることを感じている人も多いと思うが、これは底辺のギリギリの生活者たちの不安感、追い詰められ感が増していることから起きている現象である。
もう、これ以上節約できない。食事の水準も落ちた。外食に向かう回数もめっきり減った。それでも、税金をはじめ、あらゆる経費が際限なく上がってゆく。
いったい、どうしたらいいんだ?
もう新しい服も買えない。車も手放すしかない。子供への援助も無理だから、子供を金のかかる学校に行かせることもできなくなった。
こうした追い詰められ感の理由を探ってゆくと、結局、最初に述べた「競争意識と孤立生活」に行きつくのである。
もしも少人数の孤立家族でなく、大家族でたくさんの人と一緒に生活していたなら、きっと、さまざまな知恵が対話によって湧き出してきて、例えば、食料は畑を手に入れて自給自足しようとかの対策を実現できる。
田舎にダーチャ(個人農園)を確保して、イモ類を栽培すれば、もはや飢えの心配からは解放され、食料節約の大きな助けになる。
一人では、やることが多すぎて、とてもやりきれないことでも、数名が助け合ってやれば、相当な大仕事が実現できる。
一反(300坪)の畑を確保できれば、五人家族の一年分の食料が生産できる。
衣類も貸し借りできるし、冷暖房も共有できるから燃料費が安くあがる。食事も大人数なら大幅に安上がりだ。
何よりも、たくさんの人が、わいわいがやがやと対話してアイデアを出し合えば、無数の有益な知恵が湧き出して、みんなで実行することが人生の楽しさを演出してくれる。
なぜ人々は、夫婦と子供だけの孤立した小家族で苦しい生活を我慢しているのだろう?
それは資本主義社会がもたらした、競争意識の洗脳によるものだ。
周囲の人は、すべて競争相手の敵だから、頼ることができない、他人は見下すものだ…という強烈な洗脳を我々は幼いことから受けてきたのだ。
だから、他人を助けるなど、もってのほかだと思いこんでいる人が多い。もちろん、他人から援助を受けることを恥だと思う心根と一体に作られる。
資本主義=新自由主義体制の「金儲け最優先」の価値観は、このような孤立性、敵対性への執着を持って助け合い生活を拒否する人々を大量に作り出している。
これでは、今の窮乏がどんどん悪化してゆくと、結局、凄まじい犯罪の増加と、自殺の増加を生み出すしかない。
メディアは、毎日、殺人を報じねばならなくなるし、実際にそうなっている。
それでは、何をなすべきか? といえば、我々は洗脳されてしまっている競争意識から解放されて、周囲の信頼できる他人との対話を増やし、共同行動、共同の生活スタイルを増やしてゆくしかない。
「三人寄れば文殊の知恵」というシステムを最大限に活用し、みんなで対話する機会をどんどん増やして、「どうやったら生活の困難を克服できるのか?」という話し合いを重ねて、次々に実行してゆくしかないのだ。
私は、大都市の生活者に対して、過疎の田舎への移住を勧めてきた。
それも孤立家族ではなく信頼のおける仲間と共同する移住である。せめて数家族は一緒になって、移住した方がいい。
田舎暮らしはたくさんの困難があって、一家族では心が折れてしまうことも多いのだ。
今は建材価格の物凄い暴騰があって、とても新築は無理だから、大きな農家の中古住宅を畑と一緒に手に入れるのがよい。
耐震補強して、畑は獣害防止対策が必要になるが、そんなたくさんの仕事を仲間と一緒にこなし、一緒に生活することは人生最大の喜びになるだろう。
政府は、基本的に、人をバラバラにして孤立させ、政府に頼らなければ生きてゆけないと思い込ませようとする。
少人数で苦しい生活をしているとき、上から公的機関が「お情け」を与えることで、人々は政府への依存心を洗脳される。
だから、歴代自民党政権は、必ず「上から与える」ばらまきを行い、制度として生活を豊かにする仕組みは決して作ろうとしない。
日本は天皇を中心とした国家で、下々の者たちは、天皇のために命を捧げることが義務であるかのように洗脳し、個人の人権を破壊する徴兵制度や納税・教育の義務を「国民」押し付けようとしてきた。
これまでは太平洋戦争のあまりの惨禍と、軍事力を持った独裁政権の成立を懸念して、徴兵制度だけは実現しなかったが、中国やロシアの軍事侵略が切羽詰まってくれば、必ず徴兵制度が実施されるに違いない。
すでに裁判員徴兵制度や18歳成人制が、その布石として行われている。
このとき、もしも民衆が小さな共同体を作って、生活の安定が保たれ、国=公的権力に依存する必要がなくなっていれば、民衆は自分たちの生活を守るため、徴兵などの義務に激しく反対することになる。
国など強制力が邪魔なだけで、生活には何の意味もないのだから。
こうして、国家は、民衆の共同体自立を国家に対する敵対行動をみなし、それを攻撃し、排除しようとする。
国は、人々を弱い立場の個人として押し留めることで国に依存心を持たせ、共同した自立の力を持つことを嫌うのだ。
だから、生活苦から共同することは、たぶん独裁政権で甘い汁を吸おうとする人々の利害と敵対することになる。
だから、それを「共産主義=アカ」とレッテルを貼って、ソ連や中国の失敗を持ち出して激しく攻撃している。
ヤマギシズムのような共産主義勢力とは無縁の共同体まで「アカ」と決めつけ、激しい弾圧を行ったし、大本教のような政府とは独立した力を持った宗教組織を敵視し、有害思想団体と決めつけて、幹部を逮捕し、本部を爆破することまで行った。
もしも、我々が、大きな力を持った民衆組織を成立させたなら、必ず政府に攻撃される。国家は2ついらないからだ。
だから、私は、大きな組織力を持たない、数家族、20名以下の小さな共同体が互いに助け合う「群体」のような結合体が望ましいと考えている。
とにかく、何が何でも人々が助け合い「三人寄れば文殊の知恵」によって、生活を自立させていかないと、もう、とんでもない地獄社会になってしまうと考えている。
これは、大規模国家の奴隷としての国民を抜け出し、いわば原始共産制における部族社会のような、自立したマイクロ国家を作り出してゆくことを意味している。
ここでは、人間としての、あらゆる能力を発揮しなければ生き抜いてゆくことができないので、人々は最大限の能力を自ら引き出し、共同体に帰属し、助け合いの人間関係を人生最大の価値と考えて人生を送ることになる。
もはや国家は必要ない。天皇もいらない。そこにあるのは、助け合って生きるグループだけだ。
これを私は、人類の未来像と考えている。
もちろん、それまでに、世界の独裁政権による大暴走=第三次世界大戦や恐ろしい気候変動、巨大な太陽風による現代文明の崩壊があると考える。
我々は、原始的な生命力がなければ生きてゆくことができないと予想している。
生きる大きな喜びを「助け合い社会」に見出すことで、未来が開けると私は思う。