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邪馬台国問題

2023年04月29日 | インポート
 邪馬台国問題は、日本史における最大の謎であり、その解釈は百家繚乱、位置を巡る論争は、数百年にわたって数十万もの諸説が溢れている。

 私は、若い頃から民俗学を学んできたので、民俗学的視点から邪馬台国の位置を考察し、1980年代、もう40年以上前に、おそらく筑後川河口付近の柳川市にあったと結論し、卑弥呼の円墳は柳川市役所の付近ではなかったかと考えた。



 しかし、当時は権威をひけらかす史学者たちによって畿内説が常識的で、雑誌などに投稿しても、ほとんど相手にされなかった。

 それに平泉澄教授による「万世一系説」=天皇制神国日本の妄想を正当化したがっている国粋主義系学者が、「邪馬台国は外国から来たものではなく、日本独自のものだ」と、民俗学的考証を無視して強引に論争に割って入ることが多く、邪馬台国が外国からやってきた異民族であることを、観念的に拒絶する勢力が大きな力を持っていた。



 江戸時代の国学から生まれた国粋主義が、21世紀になっても、いまだに史学界に妄想と混乱を生み出し続けているのだ。

 DNA解析と称する正当化の説明も、私の目から見れば恣意的な我田引水にしか見えない。「科学的手法」と称してみても、天皇制の正当化を前提とした勝手な解釈ばかりなのだ。

 「日本愛国妄想連合」による国粋主義的解釈こそが、邪馬台国の秘密拡大と混乱の大半をなしていると私は思う。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD



 現在までの考古学的成果は、1986年に発表された吉野ヶ里遺跡が、邪馬台国の諸条件をもっとも満たしていると評価されている。

 吉野ケ里の位置は、まさに私が予想した筑後川に近い佐賀県神埼市で、後に述べる、私が想定していた「長江河口域の蘇州」に似た風土である。



 ただ、もしかしたら、2000年以上前は、筑後川が今よりも長崎本線=吉野ヶ里町に近い位置にあったか、筑後川の移動がなければ、河畔に本当の邪馬台国があるのではないかという気がしている。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1





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 民俗学の視点からは、上のリンクにある魏志倭人伝など文献上の記述を無視して、照葉樹林帯文化論の立場から考察する。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E8%91%89%E6%A8%B9%E6%9E%97%E6%96%87%E5%8C%96%E8%AB%96



 1970年代に一世を風靡した佐々木高明・中尾佐助らの照葉樹林帯文化論には、私も夢中になり、江上波夫による騎馬民族征服王朝説とともに、我々、民俗学志向の若者たちの耳目を釘付けにし続けた。

 私も、自分のブログで何度も取り上げている。

  http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827543.html



 東アジアには、ヒマラヤから台湾、日本列島に至る「梅雨」をもたらす半月弧状のモンスーン地帯があって、そこには照葉樹が優位になっている森林帯が存在し、そこに依存した人間文化が存在する。これを「照葉樹林帯文化圏」と呼び、共通性のある民俗文化が成立している。



 私は、一番大元にあるのがヒマラヤで、シッキム地方にレプチャ族というモンゴロイド民族が古くから存在し、この人々が、順次東に移動して、次々に社会を構築していったと考えている。

 ヒマラヤ・雲南・長江沿岸・上海・台湾・日本列島を包括する壮大な三角弧であり、「東亜三角弧」と呼ばれることもある。



 2500年前に長江・黄河河畔で中国文明が花開き、春秋時代が展開されたとき、長江下流域では、呉越戦争が長く続いた。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)



 最終的には越が勝利を収め、敗戦国の蘇州=呉国民は、当時の戦後処理風習である「坑刑=生き埋め刑」を逃れるため、水郷地帯の特性を生かした船で海外に逃げ出した。

 行き先は、台湾・山東半島・朝鮮半島南岸・九州北部である。これらの地域では共通して照葉樹林帯文化=弥生文化が成立している。

 そして、共通して「倭寇」の記録が存在しているので、当然、呉国民の末裔が、これらの沿岸部に住み着いて倭寇になったという推論が成立するのである。



 そもそも、民族の大移動には必ず理由が必要であり、「2500年前に、九州で突然、神武天皇が登場(降臨=空から降ってきた)して日本国を建国した」という国粋主義者たちの主張は荒唐無稽であり、妄想の類にすぎない。

 九州の弥生人文化(遠賀川文化)が、どのような理由で、どこからやってきたのかについて、「降臨」としか説明しない万世一系=天皇伝説を信奉したがる右翼的史学者たちの理屈は極めて幼稚であり、学問でもなんでもなくウリナラファンタジーに類する妄想にすぎない。



 民族大移動は、戦争や巨大な気象災害・地殻変動によってしか起きないことは世界史が証明している。巨大なイベントが必要条件なのだ。

 したがって、「神武降臨」後のヤマト民族も、呉国民が九州に流れ着いた末裔であり、稲作農耕を核心とする照葉樹林帯文化を継承していることが明らかだ。



 民俗学的にも、根栽類・木実の水さらし利用(アク・毒抜き)、絹、焼畑、陸稲、水稲、モチ米、酒、味噌、納豆、曲剣類(鎌)、裾からげ可能な衣類、漆器、歌垣、夜這い、母系氏族、妻問婚、入墨、高床式家屋などが照葉樹林文化圏に共通していて、弥生人文化は、これらのすべてを包摂している。

 しかも、弥生人文化圏は、すべて大河川の河口付近に展開されていて、長江三角州地帯にあった蘇州呉国の環境に酷似している。





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 民俗学的視点から見た邪馬台国は、照葉樹林帯文化圏の母系氏族社会を受け継いでいることから、卑弥呼が女王であったと考えるべきだ。

 また蘇州のような船による水上生活ライフスタイルを受け継いで、大河川河口において生活を展開したと考えるべきであり、必ず河川域に存在したはずだ。

 私は卑弥呼の円墳の位置を地図上で探し、それらしい盛り上がりとして柳川市役所の敷地を疑った。

 古来から、役所というのは、人々の往来の核心地に置かれることが多いので、卑弥呼の墳墓も往来の集中する場所にあると判断し、公共施設や市場の近辺と予想した。

 上の標高地図では、柳川市中心部は、市役所~三橋町に大きな海抜5m地帯が存在している。筑後川~大川市には高い場所が少ないので、筑後川は洪水のたびに移動していた可能性が強い。柳川市は、風化で沈降したと考えられ、昔は今よりはるかに高かったはずだ。大川市は水路が並ぶ水郷地帯だっただろう。

 したがって、大規模集落が存在した可能性が強く、墳墓を意味した神社も多い。



 こんなわけで、私は40年前、邪馬台国を柳川市と同定していた。もちろん誰にも相手にされなかったが、今でも考えが変わっていない。

 しかし吉野ケ里遺跡が邪馬台国である可能性が浮上し、今後の推移に注目している。



 邪馬台国がどこであっても、どうでもいいことなのだが、神武天皇が空から降ってきたかのような万世一系天皇家伝説については、不快感を抱いている。

 現在の天皇家の祖先は、弥生人ではなく、神武天皇でもない。神武が呉の大伯の一族であることは、中国史学界の常識であり、もっとも見識の高い史学者である郭沫若も断定している。

 私の若い頃の中国びいきは、郭沫若の存在が大きかった。



「騎馬民族征服王朝説」は三橋貴明のリンクで分かるように、現在の保守系知識人の総意として排斥されている。

 https://www.youtube.com/watch?v=j14IfcwBOSY&t=3s&ab_channel=%E4%B8%89%E6%A9%8BTV

 しかし、昭和天皇が「五族協和」の席で、愛新覚羅溥儀に対してにだけ「兄弟」と呼びかけたことから分かるように、天皇家自身が、扶余高句麗の満州族=女真族が天皇家の祖先であることを理解していた。

 また明人氏は以下のように述べた。



 【桓武天皇の生母(高野新笠)が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。】



 天皇家は、武寧王か、その子が継体天皇として以降の騎馬民族征服王朝の祖先となったことを十分理解していると思うべきで、三橋らによる江上説の否定はちゃんちゃらおかしい。

 何よりも、円墳→方墳 大量の馬具、直剣の出土に見られる、弥生文化とはかけ離れた天皇家の文化様式は、武寧王によって、朝鮮半島からもたらされたと考える必然性がある。



 それを、なんとしても万世一系説を死守したい保守系史学者たちが、必死なって弥生文化と騎馬民族文化を同根にさせようと取り繕っていて、滑稽この上ない。

 私は、「日本文化」は、①縄文人 ②弥生人 ③騎馬民族人の三種の民族の混合によると考えているが、一方で、未だに完全には融合せず、それぞれの特徴を残した人がいるように思える。



 縄文人文化は、7300年前に鬼界カルデラ噴火で滅亡したという定説だが、その後の縄文遺跡で遺骸が発見されていない理由は、破局噴火を察知して、船で世界中に旅立ったと考えていて、南太平洋、南北アメリカ大陸でモンゴロイド文明の祖となったのは日本の縄文人だと考えている。

 しかし、東北・北海道では一部が生き残り、アイヌとなり、また日本人に融合した。



 その後、2500年前に破局的戦争によって蘇州の人たちが日本にたどり着き、弥生文化を生成した。それが「ヤマタイ=ヤマト国」だ。

 次に、1700年前に朝鮮半島から、弓月氏(秦氏)が大量に渡来し、合同して日本人となったと考えている。



 天皇家は4回断絶しているが、一系だとしても、たかが1700年、日本列島の新参者にすぎない。

 このことを証明して、天皇家の血筋に大きな価値が存在しないことを示すためにも、邪馬台国の真実を明らかにする必要がある。