中沢 あるはずがない言葉をテーマにしているわけですね。きょうは(笑)。しかし何となく、仏教は人を幸福にしてくれるような、変な期待感もあるわけで、そのあたりいったい日本人はいま「幸福」という言葉で、何を考えているのかさえ不明なんじゃないでしょうか。ですから「仏教にとって幸福とは何か」というパラドックスみたいなテーマを立てることで、逆にいまの日本人の幸福観をもういちど検討しなおしてみたいんです。<o:p></o:p>
河合 日本的曖昧さですね。<o:p></o:p>
中沢 最近ではお坊さんも平気で「幸福」という言葉を使っています。よくお坊さんが「人間はどうしたら幸福になれるでしょう」という質問をされているのを見かけます。そこでお坊さんが少し当惑してくれればいいんだけど、しないんですね(笑)。さも当然のごとく「我執を捨てれば、あなたは幸福になれる」と答えるのですが、我執を捨てれば安心は得られるかもしれないけれども、ハッピーになったりはしないだろうに、ボヌールが訪れたりはしないだろうに、と思えたりするのです。<o:p></o:p>
河合 極端な言い方をすると、西洋的幸福は我執にふくまれると言っていいくらいですから、それを捨てると幸福もなくなる。<o:p></o:p>
中沢 そのあたりですね。ポイントは。「我執を捨てれば幸福になれる」という言い方そのものが、西洋的幸福と東洋的安心の間でよじれちゃってる。仏典をいろいろ見てみると、「幸福」にあたる言葉はなくて、いちばん近いのが「楽」という言葉のような気がします。どんな生物も、自分に苦痛や危険を与えるものを遠ざけて、快楽や安心を与えてくれるものに近づこうとします。仏教ではそういう苦痛が、内面化されて、我執によって内面の心に苦悩や歪みが発生すると考えています。そこで自我への執着を捨て去っていくことができると、内面の心にはとっても「楽」な状態がつくられます。あらゆる生命体の理想こそが、この「楽」の状態で、ほかの生物には実現できなかったことが、人間には自分の心を制御することで実現できるのですね。普通の生物がもとめている「楽」をはるかに超えて「大楽(大いなる楽)」が、心のうちに実現できるようになるわけでして。まあ、犬がひなたぼっこして気持ちよさそうにしているという状態を、とことんつきつめていきますと、仏教で言うこの「楽」が出てきます。<o:p></o:p>
河合 そうですね。<o:p></o:p>
中沢 「ああ、楽だなあ」とか「安楽だなあ」というあの「安楽」とか、信仰によって心が一カ所に安らぐという「楽」とか「安心」が、西欧語を訳した「幸福」に近いものでしょう。もっとちゃんとしたことを言うと、功利主義的な近代哲学の言う「幸福」ではなくて、キリスト教の言うところの「幸福」では、その極限的なイメージとして「天国」が登場してきます。この天国のイメージは、仏教で言う「大楽」のみちみちた場所である「極楽」ととてもよく似ています。天国も実に楽な場所だと考えられていますよね。「極楽」もしごく楽なところですものね。天国も極楽も、どちらも生命の理想状態をあらわしています。ということは、かぎりなく死に近い生の状態と言いましょうか。そういう極限みたいな状態を、天国でも極楽でも考えています。そのあたりが、「ハッピー」や「ボヌール」としての幸福よりも、「安楽」「安心」「大楽」としての仏教的な幸福のほうが、ずっと現代性を持っているようにも感じられる原因だと思うんですよ。<o:p></o:p>
河合先生には、そのあたりのことがもうおわかりだったんでしょう。「仏教と幸福」を話しましょうと最初におっしゃったのは、先生のほうですものね。さぞかし幸福については、すてきな一家言をお持ちなんでしょう(笑)。<o:p></o:p>
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