玉川上水みどりといきもの会議

玉川上水の自然を生物多様性の観点でとらえ、そのよりよいあり方を模索し、発信します

これからのこと

2017-02-10 12:43:49 | 生きもの調べ
 本書をしめくくるに当たって、これからのことを考えてみましょう。玉川上水は360年以上もの長い歴史をもっています。そして20世紀の後半に下流の10キロメートルほどが暗渠でつぶされましたが、西側の約30キロメートルは残りました。そして、上水としての機能は終えましたが、市民が散歩を楽しむ緑地として維持されてきました。散歩を楽しむ人がいれば、ジョギングで体を鍛える人もいます。そして私たちのように動植物の観察を楽しむ人もいます。
 玉川上水は歴史遺産でもありますから、維持するための管理が必要です。建物などの歴史遺産であれば劣化しないという管理をしますが、玉川上水には動植物が生きています。とくに木は大きく育ち、下に生える植物を被ったり、玉川上水の壁面に根を伸ばしたりするため、何もしないと玉川上水を変形していきます。そのため、守ることは手をつけないことではなく、適切に管理することが必要になります。現に私たちが観察している「野草保護観察ゾーン」は草原の野草を戻すために上層の木を刈り取って維持されています。
 一方、なんといっても玉川上水は東京の市街地を流れる水路です。東西に流れていますから、これに並行した道路もあれば、南北に横切る道路もあります。都市が人の暮らす空間である以上、利便性が求められるのは宿命といえます。都市であることと原生的な自然を両立するのはもともと相容れないことなのです。
 そのことを考えながら、本書の主人公であるタヌキのことを考えてみます。江戸時代の小平辺りの農地について詳細な土地利用面積が記録として残っているそうです。それによれば農地面積のおよそ半分が畑、残りの半分は雑木林であったことがわかっています。雑木林は焚き付けや緑肥のために不可欠でした。こういう環境はタヌキにとって理想的といえるものです。これは多少の変化をしながらも昭和の30年くらいまでは続いていたようです。だからタヌキだけでなくキツネもたくさんいたようです。

 「用水路 昔語り」(2016)には昭和45年頃にはキツネ、タヌキがよく見られたという古老の談話が記録されています。

「ウサギはいましたか」という問いかけに、
「昭和四五年頃にはいたね。ゴルフ場に巣を作った。キツネ、タヌキがよく見られたのはその前で、いまの学園地区全部が林だったからね。」
(こだいら水と緑の会、2016、「用水路 昔語り」)


 その後、1960年代から人口が急増し、農地が宅地に変化し、道路がつき、雑木林は激減しました。キツネはいなくなり、かろうじてタヌキが、残された雑木林で生き延びています。
 こうしたことを考えると、玉川上水にタヌキはいますが、息をひそめ、辺りを気にしてビクビクしながらかろうじて生き延びているのであって、その将来は決して安泰ではないということを忘れてはならないと思います(コラム参照)。
 都市という宿命は避け難くありますが、それを安易にしかたないとするのではなく、むしろ、だからこそ私たちは奇跡のように残された玉川上水の緑の価値を考え、その自然にマイナスになることは最小限に留める努力をすべきだと思います。
 そんなことを考えていたとき、ハッとすることばに出会いました。
 それはアマゾンの森林伐採についての記述で、

「この行いは、経済的な見地からすれば正当化されるのかもしれない。しかし、料理を作るための焚き付けとして、ルネサンス時代の絵画を使うのに似た行為であることに変わりはないのだ。」(ウィルソン、「バイオフィリア」狩野訳、1994)

 表現は違いますがハスケルの次のことばも本質的には同じことを言おうとしています。

 膨れあがる安価な材木の消費量が作り出した経済的な「必要」で正当化された、この軽率で恩知らずな行為は、私たちの内面の傲慢さと混乱が外に現れたものであるようだ。(ハスケル、「ミクロの森」、三木訳、2013、築地書館)

 玉川上水の林を伐採し、上水にフタをして暗渠にするのは現在の重機を使えばいとも簡単にできることです。私は小平に住むようになって20年ほど経ちます。小平は全体としては比較的豊かな緑が残っていると思います。しかし、ある日、突然竹林が伐採されてあっという間に立派なビルが建ったり、雑木林が伐られて駐車場になるなどを見てきました。それは心の痛むことですが、都市ではこういうことはある程度避けられないことなのだろうとも思います。その自己納得のささやかな拠り所は、このような小さな緑地の場合はほかにもまだたくさんあり、代替があるということにあります。
 しかし、玉川上水は一本しかありません。その代替はないのです。そして連続していることがそこにすむ動植物にとって重要であることもわかっています。
 私が重要だと思うのは、あの戦後の社会全体が経済復興に邁進していた時代に、30キロメートルの部分が残されたということの意味です。東京が経済発展をすることはよい、だが、そうだからといって江戸時代から続き、先人が残してきたこの緑地をつぶしてはいけない、昭和の大人たちはそう考えたのだと思います。それは英断というべきことです。私は残された「一条の緑」を失うことは、ウィルソンの言う「料理のためにルネサンス時代の絵画を焚きつけすること」だと思います。火の焚き付けはほかにもあるはずだし、そもそもその火はほんとうに必要不可欠なのかを立ち止まって考えるべきだと思います。
 360年続いた一条の緑は空中写真で見ればまことに心もとないほど細いものです。



立川から小金井辺りまでの玉川上水の空中写真

 その心もとなさを見ると、これを経済復興の最中(さなか)に守るという英断を下した人たちがいたということは感動的なことです。そのことを思えば、私たちは玉川上水を次の世代に引き継ぐ責務があると思います。あと40年ほどすると玉川上水ができてから400年の年になります。そのときに、平成の大人たちはよくぞこの玉川上水を残す決断をしてくれたと思ってもらえるでしょうか。
 私にできるのは玉川上水の動植物を観察することだけですが、そのことが玉川上水のすばらしさを示すことにつながって欲しいと願っています。そのことを若い人や子供たちに伝えるささやかな努力をこれからも続けたいと思います。



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