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「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

完全復元 伊能図

2012-09-23 23:16:18 | 城、城跡、歴史
昨日の新聞に「完全復元 伊能図」全国巡回フロア展なる記事が。

どうやら、今日までの3日間の開催。

岡山市内の岡山理科大学付属高校の体育館との事。
ちょっとのぞいてみました。
開催最終日ということもあってか、かなりの人出。


体育館いっぱいに広げられた、“伊能大図”

真ん中の人だかりの位置は“岡山”です。

その横には、“伊能中図”“伊能小図”も


この方が伊能忠敬


伊能忠敬は1800年から17年の歳月をかけて全国を調べ測量に基づいて初の日本地図を完成させた人です。


昨年の夏に訪れた、会津

“松平肥後守居城”




一昨年訪れた、犬山

“成瀬居城”


など、今までに行った先を地図の上を這いつくばって探してみました。
見ていると、結構現在もその地名が残っている場所がありました。

それにしても、よくここまで測量ができたものです。

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岡山城秋季特別展へ

2012-09-16 18:22:01 | 城、城跡、歴史
今朝は台風の影響か、天候が不安定。
遠出の予定を変更して、岡山城天守閣に登城してきました。



昨日から岡山城天守閣にて、平成24年岡山城秋季特別展 岡山城と後楽園 -殿さまの生活- を開催しています。



池田綱政公の時代を中心にした展示内容です。


白綾包桶側六枚胴具足 綱政公の所用
花菱繋(はなびしつな)ぎ文様の白綾で胴を包んだ、格調高く華やかな当世具足。


片衝茶入 銘淀

など、林原美術館からの出展が数多く見られました。

大名家の地にこれだけの文化財があるのは、岡山と彦根だけだと聞いたことがありますが、ぜひ岡山の地から散在させることなく残してもらいたいものです。

さて、来月7日はここ岡山城で第4回 「戦国の貴公子 宇喜多秀家☆フェス」が開かれます。
この夏より、参加させていただいております“備州岡山城鉄砲隊”も演武、宇喜多軍行列で参戦いたします。詳しくは、“備州岡山城鉄砲隊”HPでご確認ください。


こちらは昨年の出陣前の様子

写真を撮る側から、今年はこの甲冑武者の仲間入りをいたします。
一年前は想像もしていませんでした。

約100名の甲冑武者行列になるそうで、見ごたえあると思いますぞ~
ぜひぜひ、脚をお運びください。

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鳥取池田藩 ゆかりの地巡り  ~仁風閣~

2012-09-13 00:58:25 | 城、城跡、歴史
鳥取城跡、丸の内の中には、第11代藩主・池田慶栄の未亡人である、宝隆院を慰めるために、12代藩主・池田慶徳が造った“宝隆院庭園”があります。当時はここに宝隆院の住まわれたいた“扇御殿”がありました。

その一角に、明治40年、当時の皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓の際に宿舎として“仁風閣”が建てられました。


正面から


庭園側


鳥取城二の丸から


庭は洋風にアレンジ。芝生がきれいです。

京都国立博物館などと造りがそっくりです。




“ファントム”が下りてきそうな ♪マスカレード~


二階に食事を運ぶためだけに使われていた、らせん階段。
この階段には、支柱がありません。
硬いケヤキを彫った厚板(ささらげた)で支えているそうで、当時の職人の技術の高さを示しています。


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鳥取池田藩 ゆかりの地巡り ~近世城郭鳥取城に登城す~

2012-09-11 23:10:13 | 城、城跡、歴史
池田藩墓所の後は、鳥取城跡へ

今回は、“北御門”からの登城でござる。


こちらは、慶長の大改築前までは大手門として使われていましたが、改築後は“中御門”(南に下ったところ)が大手門となり、搦手門として使用。
主に町人が丸の内に出入りするのに使われていたそうです。


丸の内の石垣

この中には、米蔵や武器蔵が立ち並んでいたようで、馬場などもあったそうです。
写真の右端に見えるのが“中御門”にかかる橋


二の丸の“御三階櫓”の石垣

ここには三層三重の櫓が建っており、山の上丸の天守焼失後は天守閣の代わりとなったそうな。
古写真の復元図から大きさを推測すると、犬山城天守の高さに匹敵するそうです。

いざ二の丸を目指して




“御三階櫓”の石垣にある、「お左近」の手水鉢が見られます。

池田長吉の時代に築かれて石垣で、池田長幸(長吉の子)夫人の侍女・お左近が拠出した手水鉢が使われたいたそうで、こちらは昭和三十八年の発掘で見つかったものを、復元する際にもとの位置に戻したそうです。


“御三階櫓”石垣


“表御門”跡


ここを登っていくと、中世城郭の山上の丸が。
今回は時間の関係で、こちらへは登城できず。改めて登城をしてみたいと思っておりまする~


二の丸南東隅にあった、“走櫓“からみた“天球丸”石垣

こちらには、池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛夫人だった、天球院が山崎家を去った後に居住していたところ。

以前訪れた時よりもかなり、復元工事がなされており今後30年計画で進めらてている“史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備計画”に期待。
幕末期の姿に復元する壮大なプロジェクトだそうです。

ぜひ、木造建築で復元のほど....よろしくお願いしたいものです。


ちなみに、来月14日は“鳥取三十二万石お城まつり“開催されます。


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鳥取池田藩、ゆかりの地巡り   ~その1~

2012-09-10 19:27:57 | 城、城跡、歴史
昨日、朝から鉄砲隊の方に御誘いをいただいて、バスで鳥取まで行ってきました。

今回のツアーは、旧閑谷学校顕彰保存会の主催で因幡鳥取藩のゆかりの地を巡るバス旅行です。
出発場所が、旧閑谷学校ということで、かなり早めの出発になりました。

バスツアーでの旅行なんて、久しぶりです。


まず最初に訪れたのは、鳥取藩主池田家墓所


ここには、歴代藩主11代までの墓があります。

初代藩主 池田光仲は岡山藩主 池田忠雄の長子として江戸藩邸で生まれ、寛永九年に父 忠雄の死去に伴い三歳で藩主の座に就いたが、幼少の為に備前から因幡へと移封となった。
岡山藩とも縁が深い鳥取池田家である。


場所は、鳥取の市街地より東に位置する住宅街の奥にあります。


これが初代藩主 光仲公の墓

ここにある藩主の墓のほとんどに“亀趺(きふ)”という架空の動物(神獣)の上に墓石が載っています。


その中でただ一つだけ二代藩主 綱清公の墓石だけ、蓮の葉の台座に載っています。


謂われはいろいろあるそうですが、この当時、徳川は五代将軍綱吉の時代で犬公方と言われたお方、それゆえに神獣であっても遠慮をしたとか?
真意のほどは定かではありませんが....。

こちらで、管理をされておられるO氏のウイットに富んだお話を聞きながらしばし見学をいたしました。

O氏、いきなり手品とは...。
余談ですが、あのチラシ欲しかった....。(笑)

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伏見ぶらぶら ~んっ?!~

2012-08-22 23:19:46 | 城、城跡、歴史
伏見の街を走っていると、山の上に...天守閣?

ちょっと寄り道。

山の中を走りぬけると御手門が



そしてその横にはこんな石碑が



「伏見桃山城!?」

そんな城あったっけ?

大手門をくぐりに抜けると、立派な大天守と小天守が



ここは、平成16年まであった、伏見キャッスルランドの跡地だそうで、現在は運動公園になっております。
また、実際に秀吉が築いたとされる、“伏見城”はすぐそばにあったそうで、現在は明治天皇陵になっているそうです。







それにしてもよく出来ています。

家にいたに写真付きでメールしたところ、速攻で電話がかかってきました。

「これ、本当に建ってるの?」

この模擬天守、結構映画でつかわれることが多いようで、少し前には豊臣大阪城に塗り替えられていたとか?

残念ながら、耐震設計上現在は中には入れないそうですが、それにしても鉄筋でもよく出来てますな~。

今回の旅では、天守閣を見るような予定ではなかったので、思わずうれしくなりかなりの枚数を撮ってきました。
開園当時は中も見れたそうで、どのようになっていたのでしょうか?

当時を知る方どなたかいらっしゃいませんか?

その後、京都市内まで出ていつものように“阿弥陀寺”へ

信長様、森三兄弟のお墓に御線香をあげに。
前回お邪魔した時は、工事中でしたがきれいにされておりました。

思わず線香をあげながら

「綺麗にしてもらってよかったな~」と独り言を。
そして、近況報告などなど...。

近くにいたお墓参りのご家族の方、決して変な“おやじ”ではありませんから~

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伏見ぶらぶら  ~淀城跡、淀古城跡~

2012-08-21 20:50:21 | 城、城跡、歴史
昼食後、後半戦スタート!

目指すは、淀。



この淀城跡は、二代将軍の秀忠の時代に松平定綱によって築かれた城です。
今では分かりませんが、築城当時は桂川と宇治川、そして木津川に挟まれて水運の要衝として栄えたところです。




奥の石垣は、天守台の石垣です。


今も堀の一角には水を湛えています。


残念ながら、天守台の中には入れません


天守台の対角線上にも櫓があったのでしょうか

現在本丸跡は、淀城跡公園になっています。


豊臣時代の淀古城は宇治川の対岸にあったようで、現在は妙教寺の境内になっていました。




淀古城のあったことを示す石碑があるだけです。

そんな石碑のそばに、“戊辰の役東軍戦死者の碑”が立っておりました。
東軍とは幕府軍のことです。



この石碑、後ろ見回ってみると


子爵 榎本武楊 書とありました。



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伏見ぶらぶら  伏見城の遺構めぐり

2012-08-20 23:04:27 | 城、城跡、歴史
昨日は、朝から京都・伏見まで行ってまいりました。

前回も伏見へは行きましたが、事前の調べもせず、尚且つ雨にたたられた為に寺田屋近辺を少し歩いた程度でした。

今回は、伏見城の遺構巡りをしてきました。

まずは、栄春寺



ここは、永禄11年(1568)開創の曹洞宗寺院で、伏見城遺構の門があります。
伏見城総構え(土塁)が唯一現存するらしいのですが、近くに駐車場もなく、訪れた当日は境内にある剣道場で何やら試合が行われていたようで、路注。
残念ながら、総構えまで見ることはできませなんだ~。残念!

再度チャレンジか....。

次なる場所は、

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)

日本第一安産守護之大神として広く崇められています。神功皇后を主祭神として仲哀天皇応神天皇他六柱の神を祭り、初めは、『御諸神社』と称したが、平安時代貞観四年(八六二)九月九日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇よりその奇端によって、『御香宮』の名を賜った。豊臣秀吉は天正十八年(一五九〇)、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請し社領三百石を献じた。

この写真の山門は伏見城の大手門の遺構だそうです。





中には、家康造営の本殿もあります。

そこから徒歩で10分程度いくと、

源空寺という、浄土宗の寺があります。 寺伝によれば、建久6年(1195)忍空(にんくう)上人によって、はじめ炭山(すみやま)(宇治市)の地に創建されたが、慶長年間(1596~1615)当地に移されました。
 本堂には、円光大師座像を安置し、二層からなる山門の階下両脇には、石仏六体地蔵、愛染明王像及び朝日大黒天像を祀っている。


二階建てのちょっと変わった山門
この二階部分には、廻縁があったようにも見えるのですが。

そしてこれが、秀吉の持念仏“朝日大黒天”


もとは、伏見城の巽櫓にあったものだそうです。

こちらは、愛染明王



探せばまだまだ、ありそうな伏見城の遺構の数々です。

ここで、ランチタイム

源空寺そばの、手打ちそばのお店で天ざるそばをいただきました。

そば湯もついて、満足なランチでした。

では、後半戦に参りますか~

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大洲城 三の丸南隅櫓

2012-08-15 17:31:31 | 城、城跡、歴史
大洲城天守から南に下った先に、三の丸南隅櫓があります。


この櫓は明和3年(1766)に建てられた櫓で、大洲城に現存する最古の櫓だそうです。

この中は自由に見学できました。



奥の壁の板張り部分は、石落としになっています。

2階に上がると何やら壁に丸い突起が...。


これ、隠し挟間


火縄銃を打つための挟間です。
説明の通り、通常外は壁土で覆われていますが、いざというときはそれを突き破って攻撃を仕掛けたようです。

こちらの挟間も同様に




こちらも形状からして、鉄砲挟間のようです。

確かに外からは全く分かりません。



築城当時はこの櫓の下は外堀になっており、そばを流れる肱川からの水を湛えていたのでしょう。
現在は学校のグラウンドになっておりますが。

ちなみにこの櫓も国指定の重要文化財です。

川を背にした縄張り、犬山城に少し似ておりますな~。


気がつけば、あっという間のお盆休みでございました...。
また明日から通常業務に復帰します。

あ~あんまり考えたくない~


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大洲城天守 ~匠の技~

2012-08-14 21:48:28 | 城、城跡、歴史
さて、大洲城天守に。

この天守、4層4階のつくりになっています。
この4という数字は、天守ではあまり見られない数字です。
それは4(死)と読むことで縁起の宜しくない数だからなのですが...。


天守と台所櫓

この城、規模の割に千鳥破風、唐破風の数が多いのも特徴です。

中に入ってみると一番に目につくのが1階、2階の吹き抜けです。






結構面白い構造です。
この木組みを見ていると、何かワクワクしてしまいます。


2階部分の武者走り。写真右に3階への階段(これがまた急なのですが)

この階段を登る途中で見た、匠の技。


竿車知継ぎ(?)


台持ち継ぎ(?)

○○継ぎ(?)は乏しい知識の為間違っていたらごめんなさいです。

それでもこういった、伝統工法を間近でみられるのは、たのしいですな~

階段上の梁にはこんな注意書きが


“ちょんまげ”に注意しながら階段を下りました。
それにしても急な階段です。


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