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「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

週刊 日本の城   出るそうです....。

2012-12-23 23:54:11 | 城、城跡、歴史
昨日、デアゴより「週刊 日本の城」創刊のDMが届きました。



週刊「安土城をつくる」をご愛読いただいた特別なお客様に、特別キャンペーンのご案内....だそうです。

購買欲をそそる様な営業トークですな~

で中身は、

7つの章で日本各地の名城を徹底解剖するようです。
ただ、同じ城を切り口を変えて小出しにするみたいで一つの城を一度に紹介する訳では無い模様。全100号予定で、創刊号は撒き餌のごとく290円。その後は590円になっています。

安土城のような高額ではないものの、さてさて、どうしましょうか?

とりあえず創刊号は近所の書店で購入?
創刊号は1月8日だそうです。

安土城をつくる以降、この系統の城模型は発売されそうで出てきませんね~
高額な為に、果してどれ程の購買があったのでしょうか?

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聚楽第の遺構

2012-12-22 20:19:01 | 城、城跡、歴史
今朝の新聞にこのような記事が



豊臣秀吉が造営した城郭式の公邸「聚楽第」跡を発掘調査している、京都府埋蔵文化財調査研究センターが、本丸の石垣とみられる遺構を確認したそうな。

長さは何と32m、野面積みの石垣で、最も高いところで約2.3mの石垣だとか。


この「聚楽第行幸図屏風」にも、描かれております。


“金雲”が邪魔して細かい部分までは見えません。

文化財の宝庫“京都”掘れば何かしらか出てきますな~

「秀吉、すべて破壊」の定説がこの発見によって覆されたことになります。

因みに、現地説明会は24日だそうで、残念ながら私、仕事中でございます...とほほ

センターに問い合わせたら、何かしらの資料的なものって頂けるのでしょうか?

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唐津、近松寺

2012-11-24 21:42:12 | 城、城跡、歴史
呼子から、唐津に移動。

時間の関係で、名護屋城の遺構の山門があるということで、市内の“近松寺”へ



歴代の唐津城主が帰依し、菩提寺とした寺。また、江戸時代の浄瑠璃作家“近松門左衛門”の遺髪塚が残ってます。

そして、名護屋城からの移築とされる山門に、“三階菱”が。



これどこかで見た様な...。そう、今月初めに鉄砲隊演武で訪れた徳島・三好の“三好家”の家紋が、この“三階菱”。
家系は信濃源氏で鎌倉時代の阿波の守護小笠原氏の末裔。


唐津六代藩主に小笠原家の文字が。

小笠原氏の嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落、安土桃山時代に再興して江戸時代には譜代大名となりました。

唐津城へは文化14年(1817年)に、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城し以後明治維新を迎えたようです。

まさかここでこの家紋を見るとは思いませんでした。

お寺境内では、見事な紅葉が見られました。



今年も全国的に紅葉の時期が少し遅いようです。

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肥前名護屋城跡 ~兵どもが....~

2012-11-23 21:15:24 | 城、城跡、歴史
翌日は、山越えをして呼子へ

ここには、秀吉朝鮮出兵の拠点として築かれた、肥前名護屋城跡があります。
秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じ、10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取掛かりました。
加藤清正、寺沢広高が名護屋城の普請奉行となって、九州の諸大名を中心に動員、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完成。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐそうです。


施設維持管理費として1人100円を支払って、いざ入城。
長い坂道の大手道です。


ここは築城当時から、坂だったのでしょうか?それとも石段があったのか?

とにかく、この坂道のスケールだけでもかなりの大きさを物語っているように思います。

東出丸を抜け、三の丸。
この三の丸は、玉砂利が敷き詰めれていたそうです。城跡としても珍しい造りのような気がします。
そして、本丸に続く石段



秀吉の死後、徹底的に破壊されたそうですが、やったのは家康?

ここまで巨大な城跡とは...。どうやら17万㎡あるそうです。

こちらは馬場跡


当時こちらでは、鉄砲の訓練などもしていたのでしょうか?

ここの馬場、途中に櫓があることも珍しい造りだとか。



遊撃丸から見る、本丸石垣



今回の肥後・肥前の旅はどこもスケールの大きさに圧倒されます。
それにしても8カ月でよくもまあ、これほどのものを...。

今回、隣接する名護屋城博物館が来年の3月14日まで臨時休館の為に収蔵品の数々が見れなかったのが残念でした。
出来ればいずれ再度訪れたい場所です。

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肥後国熊本城 飯田丸五階櫓

2012-11-22 22:31:06 | 城、城跡、歴史
本丸御殿を見学した後、数寄屋丸二階大広間、そして飯田丸五階櫓を周りました。



飯田丸の名称は加藤清正(かとうきよまさ)の重臣、飯田覚兵衛(いいだかくべえ)が管理していたことから、こう呼ばれるようになったようです。
熊本城南面防衛の要で、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられています。西面には西櫓門を備え、出撃することも可能です。つまり飯田丸だけでも小さな城の機能を持っているのです。その小さなお城の天守閣の役目を果たすのが飯田丸五階櫓です。

明治になり熊本城に鎮台が置かれると、「不要建物」として取り壊されてしまいましたが、その優美な姿は古写真に残され、多くの市民が復元を望み、平成17年に復元されました。

飯田丸五階櫓内部







大変見ごたえのある櫓です。
結構他の建造物からは離れているのか、見学する人が全くおりません。
二人で貸し切り状態でした。

現在の櫓復元に携わった、棟梁がちょっぴりいたずら?


この様なものがありました。

この櫓を出るときに、中におられたボランティアの方が....。
「建物復元だけで、何もないので梟の堀物だけでも見てください」と仰っていましたが。
何が、何が、復元されたことに対して心から敬意を表します。

「ありがとうございました」

それにしても、ここまでスケールの大きい城は初めてでした。

1日目のお宿は...


嬉野温泉です。

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肥後国熊本城 本丸御殿

2012-11-20 21:53:19 | 城、城跡、歴史
いよいよ“闇り通路”を通り、本丸御殿へ



この様な地下通路は、全国的にも珍しい造りで、本丸御殿への唯一の通路になっています。

まず目にしたのは、本丸御殿の復元模型





ここは、藩主が日常生活をした場所。1570畳もの広さがあったようですが、今回そのうち580畳分が復元されたそうです。

今回運よく通常は歩くことのできない、“梅之間”“櫻之間”“桐之間”を歩くことが出来ました。

用途によってこの部屋の使い方が違っていたようです。



“若松ノ間”からみた“梅”“櫻”“桐”“鶴”の各間

そして一番奥に “昭君之間”



何とも煌びやかな謁見の間です。
一説によると、清正は豊臣秀吉子飼いの武将。その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君之間」というのです。

昭君之間=将軍の間という説もあるようですが、実際は謎のままです。

また、昭君の間には抜け穴伝説もあります。熊本城築城に携わった大工の棟梁善蔵(ぜんぞう)が語った「大工善蔵より聞覚控」という古文書が残されています。


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肥後国熊本城に登城す

2012-11-19 20:32:36 | 城、城跡、歴史
1泊2日という日程の中で、肥後国、肥前国に行ってまいりました。

今回はさすがにJRとレンタカーでの移動です。

肥後国熊本城は今回が初めて、以前から復元された本丸御殿を含めて見たかった城です。

まずは、そのスケールの大きさに圧倒されました。


西大手櫓門前の石垣
遥か彼方に見えるのは、戌亥櫓

築城の名手加藤清正にしてやられたり~
この石垣、登ろうと思う気持ちも無くなるわな~
以前TV番組でロッククライミングの人が挑戦してましたが、かなりきついとかその時はそれなりの装備だったと思いますが、甲冑を着て登るのはほとんど不可能では...。
そんなコメントをされておりました。


加藤清正は、天正16年にここ肥後北半国19万5千石の領主として隈本城(古城)に入ります。その後関ヶ原合戦では東軍につきます。
慶長6年(1601)に今の熊本城築城に着手。以後2代44年にわたり肥後国を治めました。
その後、細川家が11代239年、明治4年の廃藩置県まで治めたそうです。


天守入口には、加藤清正の“蛇の目紋”と細川家の“九曜紋”の陣幕が掲げられております。


大天守と小天守
こちらは、外観復元です。西南戦争開戦3日前に原因不明の火災で焼失したそうで、昭和35年に復元されました。


これは、天守の模型、中の広間まで再現されています。
こうやって創建当時の図面等資料があることで、復元が可能になるようです。


宇土櫓
こちらは創建当時から残っている唯一の建造物。地上5階地下1階の櫓としてはかなり大きな建物。通常天守であっても不思議ではない大きさの櫓です。

そしてこの櫓最上階には“廻り縁”があり、外に出ることも出来た様でこの時代の建造物としては珍しいのでは...



宇土櫓からみた天守


復元整備工事は今後も続くようです。
備前国岡山もこのような復元整備をしてくれたら...と思います。

次は、本丸御殿に入ってみましょう。


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福山城展

2012-10-10 21:59:15 | 城、城跡、歴史
昨日PC内を徘徊しているとこのようなものを見つけました。



今年は福山城築城390年に当たるようで、福山城秋季展は“福山城展”-城郭と城下町-をこの6日からやっているそうです。

福山城は本格的な城郭としては近世最後の築城で、五重五階地下一階の複合天守を持った城です。

現在はすべて白漆喰で塗りこめられておりますが、築城当時、南側(今でいう新幹線の駅側)は鉄板で覆われたいたというちょっと変わった城です。

この展示会に合わせて行われる注目のイベントが、京都・伏見から移築したといわれている、“伏見櫓”が内部公開とか。



こちらは11月3日(祝)です。

ちょっとこちらも興味あり!行ってみるかな~。

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伊能大図で見る岡山

2012-09-24 00:30:11 | 城、城跡、歴史
昨日見に行った、“伊能図”
その時は気がつかなかったのですが、



1669年(寛文9年)に永忠の指揮で着工し、1686年(貞享3年)に完成したと伝えられている、“百間川”が描かれていない?

手元のパンフでは、伊能忠敬一行が、西日本測量に出て岡山に入ったのは、文化2年(1805)12月1日、明けて文化3年の正月18日まで岡山に滞在したことになっているのだが?

絵図の右下部分に川らしき、水色に塗られて部分があるがひょっとしてこれ?


この絵図を良く観ると、現在の町名がほぼこの時期には存在していたことがよくわかります。

“松平上總介居城”


この文化2年ごろの藩主は池田斉政

この方は、池田治政の嫡男として江戸藩邸に生まれる。寛政6年(1794)、父の隠居に伴い岡山藩主となると、幕府の寛政の改革に従って藩政改革に着手した。湯浅明善など開明的な藩士を登用して藩士の気質刷新・教育振興に努め、放漫な財政体質を改めるべく、各役職に予算制度を導入して計画的運用を図りその結果、藩財政はゆとりを生じるほどに改善され、農村経済も回復をみたようです。

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