今日は朝早く、岡山を出発して京都・伏見を周ってきました。
朝8時半過ぎに伏見についたにもかかわらず、近隣の駐車場は満車!
周辺を周り、京阪の伏見稲荷駅から少し離れたところに駐車場を確保して、まずは伏見稲荷大社に参拝。
昨年頂いた、お札、お守りをお納めして、新しくお守りをいただきました。
朝早くにも関わらず、また三が日を過ぎたにもかかわらず多くの参拝者が....。
その上、かなりの雨。
いつもならば、稲荷大社を一周周るのですが、奥の院までで断念。
御朱印をいだだき、

その後、相国寺へ移動。
こちらの承天閣美術館で、伊藤若冲の襖絵を鑑賞。
そして、建仁寺塔頭の両足院へ

こちらは29日までの特別拝観。こちらでも、伊藤若冲の雪梅雄鶏図を鑑賞。

正直、昨日まで伊藤若冲に、それほど思い入れがなかった(長谷川等伯や円山応挙と比べて)のですが、
両足院の掛け軸に、やられました。
伊藤若冲さん、ごめんなさい。
広い座敷の奥の床の間に、”雪梅雄鶏図”が一幅
右を見ると、見事な庭。
こんな贅沢な空間、あるでしょうか。
小一時間その場所から動けませんでした。いや、動くことが惜しい気がしました。
これって数年前に、同じ京都の智積院で、等伯の“楓図”その息子の久蔵の“桜図”を初めて目にした時と同じような感じでした。
新年早々、いい目の保養になりました。

朝8時半過ぎに伏見についたにもかかわらず、近隣の駐車場は満車!
周辺を周り、京阪の伏見稲荷駅から少し離れたところに駐車場を確保して、まずは伏見稲荷大社に参拝。
昨年頂いた、お札、お守りをお納めして、新しくお守りをいただきました。
朝早くにも関わらず、また三が日を過ぎたにもかかわらず多くの参拝者が....。
その上、かなりの雨。
いつもならば、稲荷大社を一周周るのですが、奥の院までで断念。
御朱印をいだだき、

その後、相国寺へ移動。
こちらの承天閣美術館で、伊藤若冲の襖絵を鑑賞。
そして、建仁寺塔頭の両足院へ

こちらは29日までの特別拝観。こちらでも、伊藤若冲の雪梅雄鶏図を鑑賞。

正直、昨日まで伊藤若冲に、それほど思い入れがなかった(長谷川等伯や円山応挙と比べて)のですが、
両足院の掛け軸に、やられました。
伊藤若冲さん、ごめんなさい。
広い座敷の奥の床の間に、”雪梅雄鶏図”が一幅
右を見ると、見事な庭。
こんな贅沢な空間、あるでしょうか。
小一時間その場所から動けませんでした。いや、動くことが惜しい気がしました。
これって数年前に、同じ京都の智積院で、等伯の“楓図”その息子の久蔵の“桜図”を初めて目にした時と同じような感じでした。
新年早々、いい目の保養になりました。

本日、吉備津彦神社、秋の大祭で流鏑馬神事が執り行われました。
11時からの神事開催でしたが、9時にはすでにたくさんのカメラマンが集合。
その輪の中には、さすがに入れずそれでもそれなりに良い場所を確保して、2時間近く神事の始まるのを待ちました。
吉備津彦神社の歴史を少し、社伝では推古天皇の時代に創建されたとあるようですが、初見の記事は平安後期。神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられています。
戦国時代には、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭い社殿を焼失。松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられています。
江戸時代になると姫路藩主で岡山城主の池田利隆が本社を造営。利隆は光政の誕生を期に子安神社を造築しました。
その後、岡山藩主池田忠雄により本社・拝殿が造営された。池田綱政が社領300石を寄進したほか本殿を造営し、本殿・渡殿・釣殿・祭文殿・拝殿と連なった社殿が完成しました(元禄10年(1697年)に完成)。
吉備津神社には年に1度、十日えびすには行くのですが、ここ吉備津神社には参拝した記憶が...はるか昔のような...。
流鏑馬とは、騎乗した射手が木板の的を弓矢で射貫く神事で、千年以上の歴史があるそうです。
当神社においても歴史は古く、康永元年(1342年)の文書に国主が馬や馬費を出した記録があり、少なくともその当時から行なわれていたようです。
特筆すべきは、吉備津彦神社の流鏑馬においては風水の災いを防ぐ為、風の神、水の神とされる鶴島、亀島の方位に矢が射られることです。
これは岡山市指定民俗文化財だそうです。
以前、京都下賀茂神社で、比べ馬の神事を見たことがあるのですが、そちらとは雰囲気の違った神事でした。
3名の乗り手が順に矢を放っていきます。




神事前に、お手伝いをされていた岡山大学の乗馬クラブの学生さんにお話を聞いたのですが、馬上で手綱を離して乗ることだけでも大変な技術だそうで、その上で弓を射ることがいかに大変なのかを説明していただきました。
そういえば、本日夜19時よりBSジャパンで流鏑馬に生きる~武士の矜持~と題して小笠原流の流鏑馬を2時間番組で放映するようです。
こちらもチェックかな?

11時からの神事開催でしたが、9時にはすでにたくさんのカメラマンが集合。
その輪の中には、さすがに入れずそれでもそれなりに良い場所を確保して、2時間近く神事の始まるのを待ちました。
吉備津彦神社の歴史を少し、社伝では推古天皇の時代に創建されたとあるようですが、初見の記事は平安後期。神体山と仰がれる吉備の中山の裾の、大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源と考えられています。
戦国時代には、日蓮宗を信奉する金川城主・松田元成による焼き討ちに遭い社殿を焼失。松田氏滅亡後、宇喜多直家が崇敬し、高松城水攻めの際には羽柴秀吉も武運を祈願したと伝えられています。
江戸時代になると姫路藩主で岡山城主の池田利隆が本社を造営。利隆は光政の誕生を期に子安神社を造築しました。
その後、岡山藩主池田忠雄により本社・拝殿が造営された。池田綱政が社領300石を寄進したほか本殿を造営し、本殿・渡殿・釣殿・祭文殿・拝殿と連なった社殿が完成しました(元禄10年(1697年)に完成)。
吉備津神社には年に1度、十日えびすには行くのですが、ここ吉備津神社には参拝した記憶が...はるか昔のような...。
流鏑馬とは、騎乗した射手が木板の的を弓矢で射貫く神事で、千年以上の歴史があるそうです。
当神社においても歴史は古く、康永元年(1342年)の文書に国主が馬や馬費を出した記録があり、少なくともその当時から行なわれていたようです。
特筆すべきは、吉備津彦神社の流鏑馬においては風水の災いを防ぐ為、風の神、水の神とされる鶴島、亀島の方位に矢が射られることです。
これは岡山市指定民俗文化財だそうです。
以前、京都下賀茂神社で、比べ馬の神事を見たことがあるのですが、そちらとは雰囲気の違った神事でした。
3名の乗り手が順に矢を放っていきます。




神事前に、お手伝いをされていた岡山大学の乗馬クラブの学生さんにお話を聞いたのですが、馬上で手綱を離して乗ることだけでも大変な技術だそうで、その上で弓を射ることがいかに大変なのかを説明していただきました。
そういえば、本日夜19時よりBSジャパンで流鏑馬に生きる~武士の矜持~と題して小笠原流の流鏑馬を2時間番組で放映するようです。
こちらもチェックかな?

波賀城跡を後にして、もう一か所”篠ノ丸城跡”へ立ち寄りました。
篠ノ丸城跡は、宍粟市山崎町の市街地にある、標高324mの”一本松”の山頂に位置する中世の山城です。
石垣などは全く存在せず、土塁や堀切などで構成された山城です。
南北朝期に赤松円心の次男、貞範の子、赤松顕則によって築かれたとされています。
室町期以降は、守護代宇野氏の拠点とようです。
「黒田家譜」にみられる、官兵衛の居城「山崎の城」に推定され注目されているそうです。
山の中腹に車を止め、そこから本丸跡まで700m。

本丸までの道はそれなりに整備されております。

どんどん登ります.....一日に2か所の山道はちょっときつい。

途中に、曲輪跡が。
ここから、揖保川を挟んだ対岸の山頂に”聖山城”が見えます。

この”聖山城”は、明応年間、宇野氏の幕下下村民部少輔則真が築いたといわれています。
聖山城は堅木山にあることから「堅木城」、また山麓に鎮座する篳篥(ひちりき)神社にちなんで 「ひちりき山城」とも呼ばれています。
『赤松播備作城記』によれば、”篠ノ丸城”の出城の役割を果たしていました。
城址からは揖保川を挟んだ西方すぐのところに今回登った篠ノ丸城、北西方に長水山城が一望でき、 揖保川を越えて山陰に通じる因幡街道を押さえる要衝。
天正年間、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国攻めを行なったとき、別所氏、宇野氏らは はじめ秀吉に通じたが、のちに毛利方に転じて秀吉と対峙。
天正八年(1580)、長水城を攻めた秀吉はまず聖山城を落として本陣としました。そして、篠ノ丸城ついで長水山城を落とし、宇野氏を滅亡に追い込みました。
今回は時間がなく”聖山城跡”には行くことができませんでしたが、本丸で出会った地元の歴史マニアの方によると、”聖山城跡”からここ”篠ノ丸城跡”や”長水山城跡”を見ると羽柴秀吉の気分になれるとか...。
ここからさらに300mほど登ると、本丸に到着

山頂の上にしてはかなり広く整地された城跡です。

空堀

堀切

本丸の前の土塁
この、”篠ノ丸城跡”かなり本格的に精密な測量と調査が行われたようです。
発掘調査などの結果から、”篠ノ丸城跡”は織豊系の城郭の特徴が認められず、天正8年の宇野氏滅亡時の状態を伝えているということです。

篠ノ丸城跡は、宍粟市山崎町の市街地にある、標高324mの”一本松”の山頂に位置する中世の山城です。
石垣などは全く存在せず、土塁や堀切などで構成された山城です。
南北朝期に赤松円心の次男、貞範の子、赤松顕則によって築かれたとされています。
室町期以降は、守護代宇野氏の拠点とようです。
「黒田家譜」にみられる、官兵衛の居城「山崎の城」に推定され注目されているそうです。
山の中腹に車を止め、そこから本丸跡まで700m。

本丸までの道はそれなりに整備されております。

どんどん登ります.....一日に2か所の山道はちょっときつい。


途中に、曲輪跡が。
ここから、揖保川を挟んだ対岸の山頂に”聖山城”が見えます。

この”聖山城”は、明応年間、宇野氏の幕下下村民部少輔則真が築いたといわれています。
聖山城は堅木山にあることから「堅木城」、また山麓に鎮座する篳篥(ひちりき)神社にちなんで 「ひちりき山城」とも呼ばれています。
『赤松播備作城記』によれば、”篠ノ丸城”の出城の役割を果たしていました。
城址からは揖保川を挟んだ西方すぐのところに今回登った篠ノ丸城、北西方に長水山城が一望でき、 揖保川を越えて山陰に通じる因幡街道を押さえる要衝。
天正年間、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国攻めを行なったとき、別所氏、宇野氏らは はじめ秀吉に通じたが、のちに毛利方に転じて秀吉と対峙。
天正八年(1580)、長水城を攻めた秀吉はまず聖山城を落として本陣としました。そして、篠ノ丸城ついで長水山城を落とし、宇野氏を滅亡に追い込みました。
今回は時間がなく”聖山城跡”には行くことができませんでしたが、本丸で出会った地元の歴史マニアの方によると、”聖山城跡”からここ”篠ノ丸城跡”や”長水山城跡”を見ると羽柴秀吉の気分になれるとか...。
ここからさらに300mほど登ると、本丸に到着

山頂の上にしてはかなり広く整地された城跡です。

空堀

堀切

本丸の前の土塁
この、”篠ノ丸城跡”かなり本格的に精密な測量と調査が行われたようです。
発掘調査などの結果から、”篠ノ丸城跡”は織豊系の城郭の特徴が認められず、天正8年の宇野氏滅亡時の状態を伝えているということです。

先日の3連休最終日の15日、兵庫県宍粟市波賀町上野にある”波賀城跡”へ行っってきました。

この波賀城跡、弘長年間(1261年 - 1263年)に芳賀七郎が築城し13世紀中頃から戦国時代末期まで播磨国の中村氏が城主として拡張した山城で、因幡街道と千種を結ぶ街道を眼下に望む独立峰の城山(標高458m)の山頂に位置しています。
波賀町に残る「中村又治家文書」には、鎌倉時代中期の弘長年中(1261~1263)に、宍粟郡上野村の古城主であった芳賀七郎光節が勅命に背いたので討手として鎌倉幕府の御家人であった中村氏が古城を攻め、芳賀氏を討ち取り、恩賞として当村の小野村等を貰って移り住んだそうです。この時の伝承として『馬隠しの伝説』と言うのがあります。
中村氏は初代光時から、戦国時代末期の吉宗まで、20代にわたって波賀城主であったと言われており、中村氏は赤松氏の支配下のもとでその勢力を維持していました。
『馬隠しの伝説』
その昔、波賀城主の芳賀七郎は素晴らしい馬を飼っていました。この名馬は走らせれば飛ぶが如くで、一日にして京へ行けるほどの名馬でした。ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は馬を山の洞窟の「馬隠しの穴」に隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました。討ち死にする前に名馬を解き放って最後を飾ったと言う事です。
この城跡の見どころは、石垣。

櫓の周辺は石垣が復元されていて、布積くずし積みとなっています。
コーナー部分の算木積みはまだ完成していないようです。

あまり見かけない石垣です。


この波賀城跡、弘長年間(1261年 - 1263年)に芳賀七郎が築城し13世紀中頃から戦国時代末期まで播磨国の中村氏が城主として拡張した山城で、因幡街道と千種を結ぶ街道を眼下に望む独立峰の城山(標高458m)の山頂に位置しています。
波賀町に残る「中村又治家文書」には、鎌倉時代中期の弘長年中(1261~1263)に、宍粟郡上野村の古城主であった芳賀七郎光節が勅命に背いたので討手として鎌倉幕府の御家人であった中村氏が古城を攻め、芳賀氏を討ち取り、恩賞として当村の小野村等を貰って移り住んだそうです。この時の伝承として『馬隠しの伝説』と言うのがあります。
中村氏は初代光時から、戦国時代末期の吉宗まで、20代にわたって波賀城主であったと言われており、中村氏は赤松氏の支配下のもとでその勢力を維持していました。
『馬隠しの伝説』
その昔、波賀城主の芳賀七郎は素晴らしい馬を飼っていました。この名馬は走らせれば飛ぶが如くで、一日にして京へ行けるほどの名馬でした。ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は馬を山の洞窟の「馬隠しの穴」に隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました。討ち死にする前に名馬を解き放って最後を飾ったと言う事です。
この城跡の見どころは、石垣。

櫓の周辺は石垣が復元されていて、布積くずし積みとなっています。
コーナー部分の算木積みはまだ完成していないようです。

あまり見かけない石垣です。

今朝の新聞にこんな記事が出ておりました。
郡山城に天守あった 豊臣政権期、礎石や瓦が見つかる
奈良県大和郡山市の郡山城の天守台で、建物を据えた礎石や瓦が見つかり、豊臣政権期(16世紀末)に天守が築かれていたことがわかった。市教委が12日発表した。天守の存在を示す確実な記録がなく、「幻の天守」と呼ばれていた。関ケ原の戦い(1600年)以前の天守の遺構は珍しく、城郭の発展を知る上で重要な発見という。
郡山城は、1585年から15年間に城主となった豊臣秀長(秀吉の弟)、秀保(秀吉の甥〈おい〉、秀長の養子)、秀吉に仕えた「五奉行」の一人の増田(ました)長盛の3代で本格的に築かれた。関ケ原後に廃城となったが、1615年に復興し、明治時代に再び廃城となった。
赤穂城(兵庫県赤穂市)や明石城(同県明石市)のように天守台があっても、天守が築かれなかった城もある。郡山城は天守の存在を確実に裏付ける記録がなく、幕府が諸藩に命じて作った「正保(しょうほう)城絵図」(1644~48年)に天守は描かれていない。

現地説明会は19、20両日午前10時~午後4時。だそうです。
関ヶ原以前の天守の遺構というのは大変珍しいようです。
記憶の中でも、安土城跡くらいしか思い浮かびませんが...。
にしても奈良はちょっと遠い...。
現地説明会行ってはみたいが...。

郡山城に天守あった 豊臣政権期、礎石や瓦が見つかる
奈良県大和郡山市の郡山城の天守台で、建物を据えた礎石や瓦が見つかり、豊臣政権期(16世紀末)に天守が築かれていたことがわかった。市教委が12日発表した。天守の存在を示す確実な記録がなく、「幻の天守」と呼ばれていた。関ケ原の戦い(1600年)以前の天守の遺構は珍しく、城郭の発展を知る上で重要な発見という。
郡山城は、1585年から15年間に城主となった豊臣秀長(秀吉の弟)、秀保(秀吉の甥〈おい〉、秀長の養子)、秀吉に仕えた「五奉行」の一人の増田(ました)長盛の3代で本格的に築かれた。関ケ原後に廃城となったが、1615年に復興し、明治時代に再び廃城となった。
赤穂城(兵庫県赤穂市)や明石城(同県明石市)のように天守台があっても、天守が築かれなかった城もある。郡山城は天守の存在を確実に裏付ける記録がなく、幕府が諸藩に命じて作った「正保(しょうほう)城絵図」(1644~48年)に天守は描かれていない。

現地説明会は19、20両日午前10時~午後4時。だそうです。
関ヶ原以前の天守の遺構というのは大変珍しいようです。
記憶の中でも、安土城跡くらいしか思い浮かびませんが...。
にしても奈良はちょっと遠い...。


