「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

2014-07-31 00:35:03 | 城、城跡、歴史
今年は天気にも恵まれて、梅干しを作れました。



昨年は、梅干しの最中にがぎっくり腰をやったり、
3日干す最終日、が、昼間に居眠ったすきに、とか、いろいろありましたが、

今年は本当に何事もなく、無事に自家製”梅干し”ができました。

ちなみに、夜干し中の梅を一つ頂いてみると....。



かなり攻撃的な”すっぱさ”が、しかし香りは本当に良いのです。

ところで、昨日7月30日は、”梅干しの日”だそうでして、

梅干し食べれば難(7)が去る(30)。この古来の言い伝えを語呂にあわせて、和歌山県みなべ町の東農園が7月30日を「梅干の日」と制定した。

今から約1千年前に遣唐使の小野妹子によって中国から日本に伝えられた梅は、「食べ物・水・血」の三毒を断つ果実と言われ、昔の人は干した梅を薬として利用し、旅先で熱病や風土病などの病気にかからないように持ち歩いたという。世界で最も早くまとめられた6世紀発行の農業専門書「斉民要術」にも、梅干の作り方が記されている。

ちなみに、東農園とは、天保五年創業(1834年)の梅干製造の会社だそうです。

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長船刀剣博物館、甲冑着付け終了

2014-07-27 21:58:16 | 甲冑、火縄銃、岡山城鉄砲隊
本日、長船刀剣博物館での甲冑の着付け体験が終了しました。

今年の夏の企画展は”戦国バサラ”とのコラボ。



鉄砲隊K氏の作品も展示。
かなり大きな扇子でございます。

あとこんな変わり兜も



もちろん火縄銃の展示もありました。





今日の甲冑着付けにも多くのご参加をいただきました。

本日の甲冑着付け体験数、166名だそうです。

このような体験はめったとないことなので、実際甲冑を着ていただいた皆様も、喜んでいただけたのでは....。

刀剣博物館の関係者の皆様、備州岡山城鉄砲隊の皆様、お疲れ様でした。そして、お世話になりました。

さて今週末には、”姫路お城まつり”が控えております。



こちらでは、甲冑を身にまとい、火縄銃の演武を行います。

お近くの方もそうでない方も、お時間がございましたら、ぜひ、火縄銃の音を実感してみてはいかがでしょうか。

詳しい、演武時間などはこちら”備州岡山城鉄砲隊”のHPをご覧ください。

今年の姫路お城まつりは、官兵衛一色で、暑くなりそうです。

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早合

2014-07-26 22:50:41 | 甲冑、火縄銃、岡山城鉄砲隊
鉄砲隊のS田氏に、早合の筒部分を作っていただきました。



それに、色を入れ、今回は水性工作用塗料nuroの茜色と水性ニスのダークオークを使ってみました。



胴部分には、革を張り。

こんな感じに。



首から下げれるように、紐に固定。



ちょこちょこ、と付属品が増えていきます。

明日、27日は長船刀剣博物館にて、備州岡山城鉄砲隊の”甲冑着付け体験”が午後3時まで行われます。
私も参陣いたします。

ぜひお近くの方、本物の甲冑に触れる良い機会ですので、お越しくださいませ。

お待ちしております。

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武士のダンディズム、甲冑着付け体験

2014-07-21 20:03:01 | 甲冑、火縄銃、岡山城鉄砲隊
今月19日より始まった、林原美術館開館50周年特別展”武士のダンディズム”で甲冑着付け体験を行いました。



朝早くから、一番乗りの方は1時間半近く前からお越しいただきました。
なんと二代目宇喜多秀家公も甲冑着付けに参加いただきました。(画像がニャイ)





予定数よりもかなりの方に本歌の甲冑を着ていただき、盛況のうちに一日目を終了しました。






次回、林原美術館での”甲冑着付け”体験は8月17日です。
この機会に、本歌の甲冑を身に着けてみませんか?

林原美術館の皆様、RSKの皆様、鉄砲隊の皆様お疲れ様でした。

ちなみに来週の27日は、長船刀剣博物館にて、甲冑着付けを行います。
こちらも是非お越しください。

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リビング

2014-07-11 22:54:44 | 甲冑、火縄銃、岡山城鉄砲隊
今月の19日より岡山・林原美術館にて開催される”武士のダンディズム”

備州岡山城鉄砲隊も協力をしております。

21日には、甲冑着付け体験も行います、ぜひおこしくだされ~。


今日は、その展示品の搬出作業にO隊長宅へ

今までも何度も目にしてはおるのですが、搬出梱包作業で、いつもよりも間近で見せていただきました。
さすがの大名クラスの甲冑は、一つ一つの細工が細かい。
すべて手作業で、装飾されております。(って、画像はないのか!と言われそうですが)

展示ケースに入ってしまうとそこまでは見ることはできないのが残念ですが。

そして今回、鎧櫃をいただいて帰ってきました。O隊長ありがとうございます。

早速。



リビングに....。

自分で言うのもなんですが、かっこええ~と思います。

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森忠政公命日

2014-07-07 22:47:46 | 城、城跡、歴史
本日7月7日は、森忠政公の命日です。
昨年は、日曜日と重なり、墓所のある、津山・本源禅寺に伺いました。


鶴山公園(津山城跡)の登城入口に鎮座する、”森忠正公”像

生年: 元亀1 (1570)
没年: 寛永11.7.7(1634.7.31)
安土桃山時代の武将,江戸時代前期の大名。可成の6男。母は林通安の娘,妙向尼。幼名千丸。
豊臣秀吉に仕える。天正12(1584)年兄長可の遺領美濃国(岐阜県)金山城7万石を継ぐ。同15年2月6日従四位下侍従に叙任,羽柴姓を授けられ,文禄1(1592)年には肥前名護屋城の警護に当たる。

秀吉死後は徳川家康に仕え,慶長5(1600)年2月,信濃更科・水内・埴科・高井4郡に移封,海津城主となり13万7500石を領した。
同年の関ケ原の戦では徳川方東軍に属し所領を安堵される。
同8年美作津山に移封,藩祖となり18万6000石余を領す。3代将軍徳川家光の上洛に際し京都に赴くが,その際,食事が原因で急死。葬地は京都大徳寺三玄院。


こちらが、本源禅寺本堂


霊廟、通常は解放されていないが、7月一日より、命日の7日までは一般公開されています。
ここには、森三兄弟の位牌が安置。
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本日の大河は、高松城水攻め。

2014-07-06 18:20:39 | 城、城跡、歴史
本日の大河”軍師官兵衛”は高松城水攻めです。
前半の大きな山場が4週にわたって展開されるようです。


毛利輝元率いる4万の援軍が接近しつつあり、秀吉は甲斐武田氏を滅亡させたばかりの主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせる。信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍を送るとの返事を得たものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい命が下っている状況において、秀吉は水攻めを行うことを決定した。低湿地にある沼城の利点を逆手に取った、まさに奇策であった。

秀吉は即座に堤防工事に着手した。この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものであった。築堤奉行には蜂須賀正勝が任命された。

堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して、高松城は孤島と化してしまった。
堤防を完成させた秀吉は堤防の上に見張り場を設けて城内の様子を監視した。
一方、城内では水攻めという奇想天外な戦法に動揺し、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなったことと、小早川隆景、吉川元春ら毛利氏の援軍が来ないことも相まって兵の士気も低下。
城内まで浸水したため、城兵は小舟で連絡を取り合わなくてはならなかったとされる。

毛利輝元は、5月21日になって猿掛城に輝元の本陣を置き、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景が着陣した。しかし、既に堤防は完成しており、秀吉の築いた湖を前にして身動きがつかず、さらに信長の援軍が送られてくることから、秀吉との講和を決意する。

それに関連して、こんな画像を見つけました。


これは以前、岡山県立図書館の企画展で見たような記憶があります。

古川古松軒(ふるかわこうしょうけん)の自筆である。寛政3年(1791)3月に描かれたもので、「黄薇山人古川辰図」
朱印と黄印により、羽柴勢と毛利勢を色分けしている。

もう一つ、こちらは東京都立中央図書館所蔵の赤松之城水責之図

高松城を赤松之城としている。



左手の櫓の上には、秀吉の千成瓢箪が見られるので間違いなく、高松之城水攻めです。

そして現在、高松城址の資料館には、水攻めのジオラマも展示されています。



旧暦では今日は6月10日。
本能寺の変は1週間前に起こったわけですが、その当時も今日のように雨が降っていたのでしょうか?

秀吉軍は6月10日朝には明石を出発し、同日の夜には兵庫まで進んでいた。
明智光秀の軍は久我(京都市伏見区)付近に着陣したとの記載があります。

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武士のダンディズム、間もなくです。

2014-07-04 23:09:58 | Weblog
今月19日より、林原美術館開館50周年の企画展第一弾”武士のダンディズム”が開催されます。

先日、ニュースでも紹介された”石谷家”に残されていた、”本能寺の変”に関する、斎藤利三に宛てた長曾我部元親の書状も公開されるようです。



信長に恭順を示したにも関わらず、四国征伐を天正十年六月三日に派兵をする計画が実行されようとする前日、明智光秀の謀反によって京都・本能寺で自刃した”謎”の解明が

意外とこの時代には起こりうる出来事だったのでは?今後、「四国説」が有力になりそうな予感がします。






21日(祝日)には、備州岡山城鉄砲隊の甲冑着付け体験も行われますので、ぜひお近くの方ご来館くださいませ。

詳しくは、こちらのHPを”武士のダンディズム”

私も早く見たい、長曾我部元親の書状を。

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