池田藩墓所の後は、鳥取城跡へ
今回は、“北御門”からの登城でござる。

こちらは、慶長の大改築前までは大手門として使われていましたが、改築後は“中御門”(南に下ったところ)が大手門となり、搦手門として使用。
主に町人が丸の内に出入りするのに使われていたそうです。

丸の内の石垣
この中には、米蔵や武器蔵が立ち並んでいたようで、馬場などもあったそうです。
写真の右端に見えるのが“中御門”にかかる橋

二の丸の“御三階櫓”の石垣
ここには三層三重の櫓が建っており、山の上丸の天守焼失後は天守閣の代わりとなったそうな。
古写真の復元図から大きさを推測すると、犬山城天守の高さに匹敵するそうです。
いざ二の丸を目指して


“御三階櫓”の石垣にある、「お左近」の手水鉢が見られます。
池田長吉の時代に築かれて石垣で、池田長幸(長吉の子)夫人の侍女・お左近が拠出した手水鉢が使われたいたそうで、こちらは昭和三十八年の発掘で見つかったものを、復元する際にもとの位置に戻したそうです。

“御三階櫓”石垣

“表御門”跡

ここを登っていくと、中世城郭の山上の丸が。
今回は時間の関係で、こちらへは登城できず。改めて登城をしてみたいと思っておりまする~

二の丸南東隅にあった、“走櫓“からみた“天球丸”石垣
こちらには、池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛夫人だった、天球院が山崎家を去った後に居住していたところ。
以前訪れた時よりもかなり、復元工事がなされており今後30年計画で進めらてている“史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備計画”に期待。
幕末期の姿に復元する壮大なプロジェクトだそうです。
ぜひ、木造建築で復元のほど....よろしくお願いしたいものです。
ちなみに、来月14日は“鳥取三十二万石お城まつり“開催されます。

今回は、“北御門”からの登城でござる。

こちらは、慶長の大改築前までは大手門として使われていましたが、改築後は“中御門”(南に下ったところ)が大手門となり、搦手門として使用。
主に町人が丸の内に出入りするのに使われていたそうです。

丸の内の石垣
この中には、米蔵や武器蔵が立ち並んでいたようで、馬場などもあったそうです。
写真の右端に見えるのが“中御門”にかかる橋

二の丸の“御三階櫓”の石垣
ここには三層三重の櫓が建っており、山の上丸の天守焼失後は天守閣の代わりとなったそうな。
古写真の復元図から大きさを推測すると、犬山城天守の高さに匹敵するそうです。
いざ二の丸を目指して



“御三階櫓”の石垣にある、「お左近」の手水鉢が見られます。
池田長吉の時代に築かれて石垣で、池田長幸(長吉の子)夫人の侍女・お左近が拠出した手水鉢が使われたいたそうで、こちらは昭和三十八年の発掘で見つかったものを、復元する際にもとの位置に戻したそうです。

“御三階櫓”石垣

“表御門”跡

ここを登っていくと、中世城郭の山上の丸が。
今回は時間の関係で、こちらへは登城できず。改めて登城をしてみたいと思っておりまする~

二の丸南東隅にあった、“走櫓“からみた“天球丸”石垣
こちらには、池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛夫人だった、天球院が山崎家を去った後に居住していたところ。
以前訪れた時よりもかなり、復元工事がなされており今後30年計画で進めらてている“史跡鳥取城跡附太閤ヶ平保存整備計画”に期待。
幕末期の姿に復元する壮大なプロジェクトだそうです。
ぜひ、木造建築で復元のほど....よろしくお願いしたいものです。
ちなみに、来月14日は“鳥取三十二万石お城まつり“開催されます。

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