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「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

大洲城に登城す

2012-08-13 21:07:47 | 城、城跡、歴史
お盆休み3日目。
ちょっと遠出をして、愛媛県大洲市まで。

以前から行ってみたかった、大洲城を目指しました。
出発が11時と結構遅めに出ました...。岡山ICから大洲南ICまでの約220キロ
を約2時間半で走破。

途中もほとんど渋滞にもかからずに行けました。



この城の歴史は鎌倉時代末期、伊代国守護宇都宮豊房に築いた地蔵ヶ岳城に始まるそうです。
現在の大洲城はそれより後の近世初頭に大洲の地を治めた、小早川隆景、藤堂高虎、脇坂安治達の造営によるものだそうです。

残念ながら、明治21年に天守が取り壊されました。それを平成16年に木造による完全復元させたのが現在の大洲城です。


天守と高欄櫓


こちらは、現存する高欄櫓内部の石落とし

この櫓は、大洲城で唯一、2階に縁と高欄のある櫓です。


2階への階段、急です。


高欄櫓から、天守を望む

瓦の家紋は、蛇の目。
加藤氏の家紋が使われています。

元和3年(1617)米子より入城となった加藤貞泰。その後6万石の城主として明治維新まで加藤家が代々城主を務めてきました。

では、いよいよ天守へ

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赤穂城跡へ ~どんどん歩く~

2012-07-17 23:46:26 | 城、城跡、歴史
先日の赤穂城跡のつづきです。

車内へ一時“涼”をとったあと、現在位置と“横矢屏風折れ”の位置を確認。
どうも、“西隅櫓台”のある駐車場からだと遊歩道がない模様...。

車を、歴史博物館側に移動した方がよさそうな感じです。

本丸門前を通り過ぎ、“東北隅櫓台”を右手に進みます。


“東北隅櫓台”


“厩口門” 森時代には“台所門”と呼ばれていました。


“東横矢桝形”

ちょっとアングルを変えて撮るだけで、怪しい雰囲気...。


奥に見えるのは“東横矢桝形”



このあたりで本丸門の反対側になります。

思っていたよりも結構広いです。

途中で、”水手門”へ寄り道


赤穂城はかって、東を熊見川(現在の千種川)、南をヨシ原の広がる干潟に面した城でした。
満潮時には、海水が石垣にまで迫っていたようです。
この赤穂城でも、高松城(四国)や三原城などのように、海や川を巧みに取り入れて防御と水運に利用していました。


“仕切門”

狭間から中をのぞくとこんな感じ



この西仕切門の塀の延長線上に“横矢屏風折れ”がありました。


奥に見えるのは“南横矢桝形”です。



赤穂城、縄張りを歩いてみると軍学に従って築かれた城であることが実感できました。また、徳川幕府が始まって約50年後に築かれたにも関わらず、その構造は戦を強く意識しており、複雑に折れ曲がる石垣、角度を違える諸門に特長も良くわかります。

今後、どこまで復元されるのか楽しみです。
願わくば、本丸御殿の復元とかは....。して欲しいな~。

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赤穂城跡へ

2012-07-15 23:41:53 | 城、城跡、歴史
日曜日、あまりの天気の良さに昼過ぎから赤穂城跡まで行ってきました。

ここは比較的岡山からは近く、一般道を通っても1時間半くらいのドライブコースです。

今回は今まで歩いたことのないコースで城内を回ってみました。


“西隅櫓台”

いつもは歴史博物館に車を止めるのですが今日は、大石神社そばの駐車場に止めてみました。
この“西隅櫓台”の奥が駐車場です。


現在復元中の二の丸庭園の石垣沿いに進むと...。


“西中門”が見えてきました。

この中が現在復元整備中の“二の丸庭園”です。

工事のフェンス越しに...



以前よりもかなり形が見えてきました。

こうなったら俯瞰で見たいと思い、すぐ近くの小山(復元工事で出た土砂の山?)に登ってみることに。


“二の丸庭園”越しに見る“本丸門”


こちらは“西中門”を上から

この赤穂城跡の整備、昭和27年の都市公園としての都市計画決定、昭和46年の国史跡指定をきっかけに公有化と整備が進められています。現在本丸門、厩口門が復元され、大手門枡形や水手門石垣の復元整備、二之丸南側は都市公園として花見広場の整備が進むなど、新しい城跡としてよみがえりつつあります。また、本丸庭園は近年発掘調査された二之丸庭園(錦帯池)とともに、平成14年、国の名勝に指定されました。今後は二之丸庭園の復元整備を中心として、赤穂市のシンボルにふさわしい整備を実施していく計画です。

このような事がHPにも書かれており、今後どのように復元が進むのか非常に興味のあるところです。
まずは、二の丸庭園の完成を待ちたいと思います。

ここで一度、車に避難...。

どうも後で見ると、赤穂市内もこの時間帯30℃を超えていたようで、汗が滝のように流れました。
このまま、桝形屏風折れまで徒歩で行くことは....。
とりあえず、車の中で涼を...。

続きはまた、明日に。

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伏見城の遺構

2012-07-12 23:12:32 | 城、城跡、歴史
まだ実際に訪れていませんが、京都・伏見城です。



こちらは、2003年まであった、キャッスルランドの模擬天守。
旧伏見城の花畑跡建てられました。

京都駅にあるホテルグランビアから、かすかに見ることのできる模擬天守です。


実際に伏見城の本丸のあったところは現在、伏見桃山稜となっており、立ち入ることはできません。

 この伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため指月山に建設を始めました。
このとき築かれたものを指月山伏見城といいます。
こちらはどうやら、翌慶長元年(1596年)7月12月深夜から13日かけて慶長伏見地震が起き、城は倒壊したようである。

しかしながら、地震が起きた2日後、同年7月15日には木幡山伏見城の作事が行われている。どうも先の地震では火が出なかったようで、ほとんどの建設部材が再利用できたようで、同年の10月には本丸が完成するなど、驚異のスピードで築城されたようです。これを、木幡山伏見城と呼んで区別。

 さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。

この徳川時代の伏見城の遺構が、福山城に移築された、“伏見櫓”と“筋鉄御門”である。


伏見櫓

二重三階の立派な櫓で、天守に次ぐ大きさの櫓だったようです。


筋鉄御門

他にも、西本願寺の唐門や、高台寺の茶室などかなり分散移築されているようです。

結構な割合で、今で言うリサイクルされているのですね。

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探してみるものです

2012-07-10 23:22:39 | 城、城跡、歴史
津山城跡、登城の前に古本屋さんへ

探せばあるものです。


歴史群像シリーズ“よみがえる日本の城”(1) (28)の2冊を見つけました。

根気よく探せばそのうち見つけることができるかもしれません。
そんな気にさせてくれる2冊です。

それと何だか宝探しのような気持ちにさせてくれます。


古本屋さんて、最近はあまり見なくなりましたね~

岡山市内の商店街の中にも昔は何軒かあったように思うのですが、今はどうなっているのでしょうか?
一度調べてみましょうか。

当分、古本屋めぐりつづきそうです。


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津山城跡 登城

2012-07-09 22:37:59 | 城、城跡、歴史
太鼓櫓の石垣を左に見ながら進むと、立ち入り禁止の石段が見えます。


ここにも何かしらの櫓があったように思えるのですが...。


この、見取り図をみる限り櫓や門などの記述はありません。
少し下った先には“十二番門”の記述があります。



天守台です。
ここには、五重の天守ががそびえていました。伝説では小倉藩細川忠興から、小倉城天守の図面をもらったとか...?

こちらは天守穴蔵



この天守は独立式の天守ですそのために天守入口は、桝形を設けています。


この城の面白い点は、表鉄門の上に表玄関を設けて鉄門の中を移動させることでしょうか。



この左右の石垣の上に本丸御殿につながる渡櫓がありました。中はすべて畳敷きの廊下が続いていました。

こちらは渡櫓を渡って、“鼓櫓”の隣にある、“太鼓櫓”の上にある“鐘”

ここまででわかるように、津山城跡とにかく“櫓”の数が多いことも特徴です。
十八万石の大名にしてはかなり大きな城だったようです。


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津山城跡 ~いつもとは違う、登城~

2012-07-08 23:00:03 | 城、城跡、歴史
昼過ぎから、思い立って津山城跡へ

ここしばらく津山へ来ても、津山城跡には時間切れで訪れてなかったので本当に久しぶりです。

で、今回はいつもとは違った、登城ルートを辿ってみました。

南門から入城後、三の丸跡には現在“鶴山館”(明治の藩校)が建っています(移築でしょうか?)。
中には、津山城の見取り図や森家の系図、松平家の系図がありました。



表中門のすぐ脇の二の丸跡への石段を登ると、


慰霊碑があり、そこからその上の“鼓櫓”の石垣が見えます。



表中門に戻ってしばらくすると、唯一復元された“備中櫓”が見えてきました。



通常のルートでは、“四脚門”“切手門”“表鉄門”へと進むのですが、今回は
“切手門”を過ぎて直進。

“十四番門”跡へ行ってみました。



あまり、普段人が行かないルートですがなかなか雰囲気のあるルート、眼下に吉井川の支流、宮川を見ながら進みます。ここまで来るとかなりの標高です。
写真の左は、“鼓櫓”の石垣です。

途中に転用石らしきものも



延々石垣が続きます


来た方向を振り返るとこんな感じ。
右の石垣は“太鼓櫓”です。

普段とは違った登城も結構面白いものです。

ではいよいよ本丸へ....。


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古本屋はしご

2012-07-07 23:28:17 | 城、城跡、歴史
昨晩の雷と豪雨、すごかったですね~。

さすがに家の中でも、かなりの音と稲光で怖かったです。

PC のインターネットもつながらなくなるし...これはどうやらモデムの異常だったようで、信号が乱れたのかと....。

コンセントの抜き差しで何とか無事復旧しました。

そして今朝は、天気予報とは全くの正反対。青空がのぞいておりました。



今年も、オーシャンブルーが元気に咲いています。
昨年よりも、花の付きが良いようです。

さて、今日は昼過ぎから出掛けてついでに、古本屋を3軒はしご。


このシリーズの21号 肥前名護屋城を探しに行ってきました。
ネットでは、定価の5倍近い価格で見つけましたが、それはさすがに手を出すべきか迷っています。

結論、今日行った店にはありませんでした。
そのうち出るかな~。図書館で借りるのも手かもしれません。

本日の戦利品

この間とは別の“万歩書店”で見つけました。



「姫路城物語」こちらは、平成5年に重版してから後出ておらず、探していた本の一冊。
そして、もう一冊は、「日本の城 原風景」
古写真と、現状の姿で構成された本で、岡山城など戦災前の写真が掲載されています。



復元してほしい~。

古本屋のはしごも、結構掘り出しものに当たったりします。

明日は、図書館かな?

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本源禅寺へふたたび

2012-07-01 20:05:21 | 城、城跡、歴史
今日7月1日は、旧暦で5月12日。

信長公の430回目のbirthdayです。



碧也ぴんく 著  「天下一!!」より


そんな日に、津山城跡の西に位置する“本源禅寺”へ行ってきました。



昨日にブログにも書いたように、今月7日は津山藩初代藩主 森 忠政公の命日、
そして、この“本源禅寺”は森家の菩提寺ということで、森家、関家、松平家の御霊碑二十九基を安置しているお寺です。



御霊屋の扉はこの7日まででも常時開いているわけではなく、御住職に開けて頂くようになっておりました。
御住職のお話では、かなり古いものなので、急激な湿度や温度変化に弱いそうでそのようにしているとか。



もちろん森家の菩提寺ですので、本能寺の変で命を落とした、乱丸・坊丸・力丸をはじめ、美濃兼山城主 森 可成や鬼武蔵と恐れられた長可の御霊碑にも、しっかりと手を合わせてきました。

中の写真はありませんが、御霊碑の大きさはかなり大きく、忠政公のものは153㎝もあり、可成公、長可のものでも100㎝近く、乱丸・坊丸・力丸のものでも50㎝弱はあったでしょうか、どの御霊碑も立派なものでした。

今月7日(森 忠政公の命日)には午前10時から法要が執り行われるようです。


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旧二条城、内堀

2012-06-29 23:42:26 | 城、城跡、歴史
今朝の新聞で、こんな記事を見つけました。

「旧二条城 西の堀跡発見」

「信長 将軍義昭の為に造営」



織田信長が、室町幕府15代将軍 足利義昭の為に1569年に築いた、旧二条城の西の堀跡の一部が見つかったとか。

さすがに京都、掘れば何かかが出てくるとは思いますが...。

で、現地説明会は30日の午前10時から...。

「よし、行くぞ~」ってすっかりその気に...

明日は、夕方鍼。しっかり体のメンテナンスをしてから....。

翌日、日曜日は朝早く起きて出掛けるかな~



 ショック!!


「30日って...あ・し・た」

すっかりと日にちと曜日を間違えていました...。

ショックです。

あれこれ調べても、どうやら現地説明会は30日の午前10時からの一回のみのようです。

なぜ、日曜日もやってくれないの~

朝出掛けて、夕方3時はきついよな~

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