「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

全国火縄銃サミット、ギネス登録

2014-09-29 10:48:05 | 甲冑、火縄銃、岡山城鉄砲隊
今朝3時に岡山に帰陣いたしました。
今回は、前日の鳥取での演武後、熊本・芦北への遠征となりました。

鳥取からバスに揺られること9時間強、宿泊先のホテルには夜中の11時半着
そして翌日、朝から甲冑に身をまとい参陣いたしました。





演武中の画像は、また後ほどUPできると思います。

そして、このサミットの1大イベント、参加団体による一斉射撃、ギネス登録です。



3回目の挑戦で、251名の一斉射撃がギネス登録されました。

お祝いにくまモンも来たそうですが、”生”くまモンは見ておりません。

遠路、熊本まで運転いただいた、備北バスのドライバーさん、今サミットの運営にかかわられた皆様、
そして、鉄砲隊の皆様お疲れ様でした。

次回は、10月熊野神社です。

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鳥取三十二万石お城まつり 参陣

2014-09-28 22:54:31 | 甲冑、火縄銃、岡山城鉄砲隊
第15回鳥取三十二万石お城まつりに出陣してまいりました。

今回は、この鳥取演武の後、熊本・芦北まで遠征いたします。



演武の画像は後ほどUPされ次第に...。



演武前の出陣準備



さて、いよいよ出陣です。

今回の演武に、ブログでお付き合いさせていただいております、naotonさんが見に来られておりました。
ありがとうございます。

演武終了後、熊本・芦北に向けて出陣いたします。

さて何時間かかるのやら?

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天正八年,羽柴秀吉 官兵衛を「播州宍粟郡山崎に城に居らしむ」

2014-09-18 20:55:53 | 城、城跡、歴史
波賀城跡を後にして、もう一か所”篠ノ丸城跡”へ立ち寄りました。

篠ノ丸城跡は、宍粟市山崎町の市街地にある、標高324mの”一本松”の山頂に位置する中世の山城です。
石垣などは全く存在せず、土塁や堀切などで構成された山城です。

南北朝期に赤松円心の次男、貞範の子、赤松顕則によって築かれたとされています。
室町期以降は、守護代宇野氏の拠点とようです。

「黒田家譜」にみられる、官兵衛の居城「山崎の城」に推定され注目されているそうです。

山の中腹に車を止め、そこから本丸跡まで700m。



本丸までの道はそれなりに整備されております。



どんどん登ります.....一日に2か所の山道はちょっときつい。


途中に、曲輪跡が。
ここから、揖保川を挟んだ対岸の山頂に”聖山城”が見えます。



この”聖山城”は、明応年間、宇野氏の幕下下村民部少輔則真が築いたといわれています。
聖山城は堅木山にあることから「堅木城」、また山麓に鎮座する篳篥(ひちりき)神社にちなんで 「ひちりき山城」とも呼ばれています。

『赤松播備作城記』によれば、”篠ノ丸城”の出城の役割を果たしていました。

城址からは揖保川を挟んだ西方すぐのところに今回登った篠ノ丸城、北西方に長水山城が一望でき、 揖保川を越えて山陰に通じる因幡街道を押さえる要衝。

天正年間、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国攻めを行なったとき、別所氏、宇野氏らは はじめ秀吉に通じたが、のちに毛利方に転じて秀吉と対峙。
天正八年(1580)、長水城を攻めた秀吉はまず聖山城を落として本陣としました。そして、篠ノ丸城ついで長水山城を落とし、宇野氏を滅亡に追い込みました。

今回は時間がなく”聖山城跡”には行くことができませんでしたが、本丸で出会った地元の歴史マニアの方によると、”聖山城跡”からここ”篠ノ丸城跡”や”長水山城跡”を見ると羽柴秀吉の気分になれるとか...。

ここからさらに300mほど登ると、本丸に到着



山頂の上にしてはかなり広く整地された城跡です。


空堀


堀切


本丸の前の土塁

この、”篠ノ丸城跡”かなり本格的に精密な測量と調査が行われたようです。
発掘調査などの結果から、”篠ノ丸城跡”は織豊系の城郭の特徴が認められず、天正8年の宇野氏滅亡時の状態を伝えているということです。

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波賀城へ

2014-09-16 23:35:16 | 城、城跡、歴史
先日の3連休最終日の15日、兵庫県宍粟市波賀町上野にある”波賀城跡”へ行っってきました。



この波賀城跡、弘長年間(1261年 - 1263年)に芳賀七郎が築城し13世紀中頃から戦国時代末期まで播磨国の中村氏が城主として拡張した山城で、因幡街道と千種を結ぶ街道を眼下に望む独立峰の城山(標高458m)の山頂に位置しています。

波賀町に残る「中村又治家文書」には、鎌倉時代中期の弘長年中(1261~1263)に、宍粟郡上野村の古城主であった芳賀七郎光節が勅命に背いたので討手として鎌倉幕府の御家人であった中村氏が古城を攻め、芳賀氏を討ち取り、恩賞として当村の小野村等を貰って移り住んだそうです。この時の伝承として『馬隠しの伝説』と言うのがあります。

中村氏は初代光時から、戦国時代末期の吉宗まで、20代にわたって波賀城主であったと言われており、中村氏は赤松氏の支配下のもとでその勢力を維持していました。

『馬隠しの伝説』
その昔、波賀城主の芳賀七郎は素晴らしい馬を飼っていました。この名馬は走らせれば飛ぶが如くで、一日にして京へ行けるほどの名馬でした。ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は馬を山の洞窟の「馬隠しの穴」に隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました。討ち死にする前に名馬を解き放って最後を飾ったと言う事です。


この城跡の見どころは、石垣。



櫓の周辺は石垣が復元されていて、布積くずし積みとなっています。
コーナー部分の算木積みはまだ完成していないようです。



あまり見かけない石垣です。

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今朝の新聞から~郡山城~

2014-09-13 19:35:02 | 城、城跡、歴史
今朝の新聞にこんな記事が出ておりました。

郡山城に天守あった 豊臣政権期、礎石や瓦が見つかる

奈良県大和郡山市の郡山城の天守台で、建物を据えた礎石や瓦が見つかり、豊臣政権期(16世紀末)に天守が築かれていたことがわかった。市教委が12日発表した。天守の存在を示す確実な記録がなく、「幻の天守」と呼ばれていた。関ケ原の戦い(1600年)以前の天守の遺構は珍しく、城郭の発展を知る上で重要な発見という。

 郡山城は、1585年から15年間に城主となった豊臣秀長(秀吉の弟)、秀保(秀吉の甥〈おい〉、秀長の養子)、秀吉に仕えた「五奉行」の一人の増田(ました)長盛の3代で本格的に築かれた。関ケ原後に廃城となったが、1615年に復興し、明治時代に再び廃城となった。

 赤穂城(兵庫県赤穂市)や明石城(同県明石市)のように天守台があっても、天守が築かれなかった城もある。郡山城は天守の存在を確実に裏付ける記録がなく、幕府が諸藩に命じて作った「正保(しょうほう)城絵図」(1644~48年)に天守は描かれていない。



現地説明会は19、20両日午前10時~午後4時。だそうです。

関ヶ原以前の天守の遺構というのは大変珍しいようです。
記憶の中でも、安土城跡くらいしか思い浮かびませんが...。

にしても奈良はちょっと遠い...。現地説明会行ってはみたいが...。


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玄関エントランス模様変えとお知らせ

2014-09-07 23:42:55 | ガーデニング
今年の夏は、冷夏といいながらかなりの猛暑日が続きました。

玄関先の、”オーシャンブルー”も暑さの為かなかなか花をつけず、ようやく今頃になって葉を茂らせ始めました。

エントランスの鉢植えも今年はほとんど放置状態でしたが、ようやく少し綺麗になったのでは...。



例年虫食いだらけの樹木(名前すらわからない)を思い切って伐採。
根っこから取り除きました。

変わって、今年5月に花をつけた”一初”という種類の菖蒲を、地に下ろしました。

また、プランターの花もこの時期種類が少ないながらも数種類植えてみました。

全体的にかなりすっきりとした感じです。

今回、地に下ろした”一初”が上手く付けば、開花時期の少しずれた菖蒲も植えてみたいな~と思っております。

そんなこんなの、週末でした。


フェイスブックではお知らせしていますが、今月の終わりには、熊本・芦北にて”全国火縄銃サミット”が行われます。

”備州岡山城鉄砲隊”も参加いたします。



前日の鳥取お城まつりからの流れで、かなりの強行軍ですがサミット自体、私初参加。
楽しみにしておりまする~


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伏見桃山城へ登城

2014-09-02 22:52:34 | 城、城跡、歴史
伏見稲荷大社を後にして、伏見桃山城へ向かいました。

こちらは、平成15年までキャッスルランドとして、営業されていた施設。
現在では、運動公園として整備されております。

秀吉の”伏見城”はこの運動公園の敷地そばにあります。見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていたらしいが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられています。2009年2月20日、宮内庁の許可を得た日本考古学協会によって伏見桃山陵の本格的な調査が行われ、敷地内に4–5メートルの盛り土がなされていることが判明したが、城郭を記した歴史的文献には存在しないものであることから、未発見の古墳ではないかともいわれているようです。







通常は中へは入ることはできないようです、が.....このようなものを発見



9月7日(日曜日)”伏見・お城まつり”が開催されるようで、一階部分の一部が開放されるようです。
黄金の茶室が復元とか...。

行ってみたいが....。2週続けて....。



ちょっと、考え中!

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伏見稲荷大社、稲荷山制覇

2014-09-01 22:31:33 | 写真
本殿祈祷の後、稲荷山へ。

2年前にも、一度稲荷山をすべて回りました。



案内図はこんな感じです。

では出発~♪


千本鳥居

この辺りは、参拝客でかなりの混雑です。

いよいよ、熊鷹社を目指して。



熊鷹社そばの鳥居

まだ、全体の四分の一程度です。

どんどん登ります。


三ノ峰、下ノ社
白菊大神と崇められています。
かなり登ったようですが、頂上まで(一ノ峰)まではもう少し、ここから又坂が急になていきます。


登り始めて30分強、ようやく一ノ峰(稲荷山頂上)です。

一ノ峰(上社神蹟)

ここは稲荷山の最高峰(標高233メートル)です。
ここを末広大神と崇める信仰がありますが、これは親塚を建てた以前からつづく信仰らしく、神蹟改修を示す親塚裏面に(明治10年6月、燈明講奉納・末広社)という刻字が見出せます。

ここからは下り、

まだまだ、鳥居が続きます。

次に目指すは、薬力社


この鳥居のそばにある杉の木の幹に触れながら、念ずると良いとのこと、家族の健康を祈念しました。


眼力社

ここまで来るともうすぐ、四ツ辻
眼力社さんは、その伏見稲荷大社創始として今なお人々の崇敬をあつめる霊地、稲荷山に祀られている神さまで、古くから「眼の病が良くなる」「先見の明・眼力が授かる」という御利益があるといわれているそうです。
そんな眼力社さんのもとには多くの御商売人、企業経営者、相場関係者らが全国からお詣りに訪れるようです。

結構きつい行程ですが、森林浴効果でしょうか、それほど負担を感じませんでした。全行程約一時間でした。

それでは下山いたします。

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