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後藤又兵衛の最期の様子を克明に報告した書状が見つかる

2016年11月18日 | Weblog
 岡山県立博物館(岡山市北区)が17日、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で真田幸村らとともに「大坂城五人衆」の「槍の又兵衛」と称され活躍し、討ち死にした武将・後藤又兵衛基次(1560-1615)の最期の様子が豊臣秀頼に報告された状況を記した書付が京都市内で見つかったと発表した。
 大坂夏の陣で落城前日の5月6日、小松山(大阪府柏原市)で伊達政宗の重臣片倉重綱が率いる鉄砲隊に撃たれたとされる。致命傷を負った又兵衛が、秀頼から拝領した脇差し「行光(ゆきみつ)」で家臣に介錯を頼んだことが記されている。
 又兵衛は豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛に仕え、黒田家を離れてから浪人となり、大坂の陣で徳川方の大軍に囲まれた末に討ち死にしたとされる。
 書面は縦27・4cm、横35・0cmの1枚紙で、豊臣方で又兵衛の下で戦った備前国(岡山県)出身の武将・金万平右衛門(こんまへいえもん)か、その子孫が書いたとみられる。山陽新聞では宇喜多氏以来の岡山城主には仕えず、大坂の陣に豊臣方で参戦した。戦後は徳川家臣の稲葉正成に仕官し、子孫は京都・淀藩稲葉家の家老を務めたと記している。
今春に博物館職員が京都府内の子孫宅にあった書面を受け取ったという。
 「後藤又兵衛討死之時」とする13行の文面には、又兵衛が長四郎という小姓に脇差し「行光」を渡し、自分の首を討って、又兵衛の最期はこうだったと秀頼に伝えるよう指示したが、長四郎は首を落とせず、脇差しだけを秀頼に渡したという内容が書かれているという。さらに、もう1人の小姓も討ち死にした証拠として又兵衛の折れた「指物(さしもの)」(旗か刀の意味)を秀頼に持って行き、その後、金万平右衛門がその場に到着したと記す。
 書付は25日から来年1月15日まで、同博物館で展示される。
[参考:共同通信、山陽新聞、読売新聞、朝日新聞、デイリースポーツ、NHKニュース]


  柏原市玉手山公園の「後藤又兵衛基次の碑」  (平成17年11月3日撮影)      同説明板

(注)説明板では元和元年と記されているが、慶長20年7月13日をもって元和に改元されている。

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