tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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神武東征 早わかり

2012年03月11日 | 記紀・万葉
「神武天皇」という名前(諡号)は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号(しごう)を一括撰進したときに付されたものであり、『古事記』には神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)として登場する。本人は、神武天皇という名前はご存じないのである。

系図によると、天照大神→天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)→邇邇芸命(ニニギノミコト=天孫・皇孫)→火遠理命(ホオリノミコト=山幸彦)→鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)→神倭伊波禮毘古命(神武天皇)となる。つまり、天孫・ニニギの曾孫(ひまご)ということになり、天照大神から数えると6代目の子孫となる。なお伊波禮毘古命の祖父(母の父)は、海の神・綿津見(ワタツミ)である。


兄猾 (えうかし)、弟猾 (おとうかし)ゆかりの宇賀神社(宇陀市菟田野 トップ写真とも)。神武軍に抵抗して殺された(地元を守ろうとした)兄猾が祭神(3/10撮影)

神武東征(東遷)とは何か。平凡社刊『世界大百科事典』によると

初め日向の国の高千穂宮 (たかちほのみや) にいた神武は,兄五瀬 (いつせ) 命とはかり,「どの地を都とすれば安らかに天下を治められようか,やはり東方をめざそう」と日向を出発する。途中,宇佐,筑紫,安芸,吉備を経歴しつつ瀬戸内海を東進して難波に至り,そこで長髄彦(ながすねひこ) と戦って五瀬命を失う。神武の軍は南に搭回して熊野に入ったところを化熊に蠱惑 (こわく) されるが,天津神の助力によって危地を脱し,天津神の派遣した八咫烏 (やたがらす)の先導で熊野・吉野の山中を踏み越えて大和の宇陀に出る。

ここで兄猾 (えうかし)、弟猾 (おとうかし)を従わせ,以後,忍坂 (おさか) の土雲八十建 (つちぐもやそたける),長髄彦,兄磯城 (えしき),弟磯城 (おとしき)らの土着勢力を各地に破り,大和平定を成就する。さらに別に天下っていた饒速日 (にぎはやひ) 命も帰順して,神武は畝傍 (うねび) の橿原 (かしはら) を都と定め天下を統治するに至った。



斬られた兄猾の血が流れたので「そこを宇陀の血原(ちはら)といふ」(『古事記』 3/10撮影)

東征には、何か理由があったのだろうか。日本文芸社刊『面白いほどよくわかる 天皇と日本史』(阿部正路監修)によると

歴史学者の黒板勝美は、「凡(すべ)て民族の移転には、第一に食物の欠乏、即ち土地の生産力が人口の増殖に伴わなかった場合と、第二に他民族との関係を生じた場合とがある」として、神武の東遷はこの2つのどれかの理由にあてはまろうという。天孫民族がしだいに増えていけば食物も欠乏するだろうし、ましてこの場合に近隣の住民と衝突などが起きれば、現住地にいつまでも恋々としていないで別天地を求めて飛躍しようというのが、当然とるべき策のはずである。こんな相談が持ち上がったのが、天皇にとっては不惑をはるかに越えた年代である。東遷の契機にはよばどせっぱつまったものがあったのであろう。


難波から大和へ至る「日下の直越(ただごえ)道」は、ここから入る(東大阪市日下町 1/29撮影)

難波から生駒山を越えて大和へ入ろうとして、孔舎衛坂(くさえのさか 今の東大阪市日下町)で長髄彦族のはげしい抵抗をうける。そうして、日の神の子孫であるわれわれが日に向かって戦うのは理に反している、あらためて日の神を負うて賊を討とうということとになって、南に転戦する。その途中、紀伊国で、長兄の五瀬命(いつせのみこと)は激戦でうけた流れ矢の傷がもとで亡くなる。さらに船を東に進めたが、暴風雨で漂流。このとき、兄の一人稲水命(いなひのみこと)は「自分の祖先は天神、母は海神なのに、どうして陸や海でこのように私を苦しめるのだろうか」と言って剣を抜いて海に入り、もう一人の兄御毛沼命(みけぬのみこと)は「母と叔母は海神なのに、どうして私を溺れさせるのか」と言って、浪の穂を踏んで常世郷(とこよのくに)に行ってしまった。


直越道の沿道にある「厄山」の碑(東大阪市善根寺町)。「彦五瀬尊 御負傷の地と言ひ伝へらる」と刻まれている(1/29撮影)

以下、東征のストーリーを坂本勝監修『図説 地図とあらすじでわかる! 古事記と日本書紀』(青春新書)から拾ってみる。

その後、弟イハレビコが中心となり、進軍が再開される。その一行は、日の神の御子として、太陽に面かって進撃するのはよくないということから、日を背にして戦おうという、イツセの死の直前になされた取り決めのため、海路南下し、熊野より再上陸を果たした。だがその熊野で妖気に当たり、一行は気を失って倒れてしまう。一同が目覚めたのは、タカクラジ(高倉下)という男が刀を持って現われた時であった。

その男は、不思議な夢の話をした。それによると、自分の夢にアマテラスとタカミムスビが現われ、タケミカヅチに子孫の手助けをするよう命じた。タケミカヅチは自分が降らずとも、国を平定した時の大刀があればイハレビコを助けることができると言って、タカクラジの倉の屋根に穴を空けてその大刀を降し入れようと言った。翌朝、目覚めると夢の通りにこの大刀があったので、こうして献上したのだという。タカクラジは神々の意向通りに刀を届けにきたのだった。


梅が咲き始めていた(桜井市内で 3/10撮影)

その後、タカミムスビは、八咫烏(やたがらす)を遣わしてイハレビコを先導させた。烏の誘うほうに進みながら、イハレビコは、阿陀(あだ)の鵜飼の祖先をはじめ様々な人に出会う。この時、イハレビコは名前を問い、人々はこれに素直に応えているのだが、これは恭順の証で、イハレビコの支配を受け入れたことを意味している。一方で抵抗する者もいた。宇陀のエウカシは服従すると見せかけ、罠を施した屋敷にイハレビコを誘って殺そうと謀った。しかし、弟のオトウカシが兄の企みをイハレビコに知らせたため露見し、エウカシは、追い込まれて自分の仕掛けた罠にかかって死んだ。

忍坂(おさか=桜井市)では尾の生えた土雲(つちぐも)、ヤソタケルが岩屋の中で待ち構えていた。イハレビコはヤソタケルヘの友好を装って、多くの配膳人にたくさんの料理を運ばせた。しかし配膳人たちは密かに刀を携えていたのである。そして、イハレビコの歌を合図に斬りかかり、油断したヤソタケルを打ち滅ぼしたのである。


等彌神社(桜井市桜井)のすぐ南の丘に神武聖蹟・鳥見山中靈畤(とみのやまのなかのまつりのにわ)がある(3/10撮影)

続きを武光誠著『図解雑学 古事記と日本書紀』(ナツメ社刊)から紹介する。

奈良盆地の大半を支配下におさめたイハレビコは、再びナガスネビコに戦いを挑む。いよいよ戦いが始まったとき、金色に輝くトビがイハレビコの弓に飛んできた。ナガスネビコの軍勢は、トビが放つ輝きに日がくらみ、矢を思うように射ることができず敗北する。実はナガスネビコにとどめを刺したのは、ナガスネビコが仕えていたニギハヤヒであった。

ニギハヤヒは天神(あまつかみ)であり、天降って大和を治めていた。そこにイハレピコが攻めてきて、ナガスネビコと戦いを繰り広げた。ナガスネビコは、2人の天孫のどちらが大和を治めるのにふさわしいか力の勝負で決着をつけるべきだと考えていた。しかし、ニギハヤヒはイハレビコのほうが自分より嫡流に近いことを知り、ナガスネビコを殺して(イハレビコに)服属の意を表明したのである。ニギハヤヒの加勢により、ついにイハレビコは大和を平定した。イハレビコは次のようにいったという。「ようやく東征を果たし、たいへん喜ばしい。これから畝傍山の東南の橿原に都をおいて、国を治めることとする」。これが天皇家と大和朝廷の始まりで、『日本書紀』では前660年となっている。

一方、帰順したニギハヤヒとナガスネビコの妹との間には子がいた。その子孫が物部氏とされている。物部氏は朝廷に仕え、大伴氏と並ぶ武門の有力豪族となり、5世紀後半に全盛期を迎えている。考古資料からも、物部氏は大和朝廷初期の都、纏向(まきむく)の北にある石上(いそのかみ)を本拠地としており、朝廷ができてすぐにその支配下に入ったと推定されている。



神武聖蹟・菟田高倉山の山頂に高角(たかつの)神社がある(3/10撮影)

この神武東征説話を西郷信綱著『古事記の世界』(岩波新書)は、次のように解釈する。《神武東征は、歴史的事件ではなく、国覓(くにま)ぎの物語化されたものとして読むことによってのみ正確に理解される。「何地に坐(ま)さば、平らけく天の下の政(まつりごと)を聞しめさむ。猶東に行かむ」といってイハレビコ(神武)は日向を発ったと古事記はしるしているが、国覓ぎ、すなわち都とすべき吉き地を求めるのは、国ぼめや国見と一連の即位儀礼の一部であった》。

神武東征のお話はここまでだが、最後に余談を1つ。「日ユ同祖論」(にちゆどうそろん)という珍説をご存じだろうか。日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)は、共通の先祖を持つ兄弟民族であるとし、古代イスラエルの「失われた10支族」は、日本に渡来したという説である。Wikipedia「日ユ同祖論」の「イスラエル10支族の失踪と神武東征」によると

[超図説] 日本固有文明の謎はユダヤで解ける (超知ライブラリー)
ノーマン・マクレオド 、久保有政
徳間書店
日本神話の神武東征によれば、イワレヒコ(庚午年1月1日(西暦紀元前711年2月13日)誕生と推定される)は、西国の日向から東方へ遠征し、数多の苦闘の末に大和・橿原の地に到達して、辛酉年春正月庚辰朔(西暦紀元前660年2月11日と推定される)に即位し、初代天皇の神武天皇となったとされている。この神話の暗喩を意味解くと、日本人の始祖は、日本列島よりも遥か西の地から出た民族であり、何らかの事情から、その地を離れ、安住の地を目指して東方へ移動し続けた結果、最後は日本に到達したと、以下の通り主張する者もいる。

北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、祖国を追われた同国民がいずこかへと消え失せたのが西暦紀元前721年。世界史屈指の謎とされるイスラエルの失われた10支族である。今日、10支族の痕跡が色濃く見られる地には、インドのカシミール地方・アフガニスタン・中国などが上げられるが、これらを地図上から検証すると、彼ら10支族の行程として、シルクロードが浮かび上がる。神武天皇の誕生年は紀元前711年であるが、一方で、イスラエル10支族が失踪したのは紀元前721年と、その差は僅か10年となる。これらの事から、神武天皇=失われたイスラエル10支族を意味し、東征神話=イスラエルから日本へ達した彼らの旅路を示すものではないかというものである。


と、まあ想像の翼を広げればキリがない。まことに神話はロマンである。
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