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神武天皇の宮=御所市柏原説 を追う

2012年03月12日 | 記紀・万葉
東征を果たし大和を平定した神武天皇は、橿原の宮で即位した。『古事記』に《荒(あら)ぶる神等(かみども)を言向(ことむ)け平和(やは)し、伏(まつろ)はぬ人等(ひとども)を退け撥(そけはら)ひて、畝傍の白檮宮(かしはらのみや)に坐しまして、天の下治らしめしき》とあるとおりで、今はその宮跡伝承地に橿原神宮(橿原市久米町)が建つ。

橿原神宮は《記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明治23年(1890年)4月2日に官幣大社として創建された》(Wikipedia)という神社である。明治21年に当時県会議員だった西内成郷氏(高市郡上子島村=現在の高取町)が内務大臣・山県有朋に請願したもので、『橿原神宮史』には「同地ヘ一ノ建碑ヲナシ其碑文ノ如キハ勅裁を仰ギ奉ラントス」とあり、もともとは神社ではなく「記念碑を建ててほしい」というつつましいものだった。

一方、「畝傍の白檮宮」は橿原市ではなく、御所市柏原であるという説がある。ウチの会社に、代々柏原に住み、「神武天皇社」(御所市柏原字屋舗)という神社の総代を務めておられる先輩(ハンドルネーム「国見山」さん)がいて、現地の写真をはじめ、いろんな情報を提供してくださった。

かくれ里 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
白洲正子
講談社

白洲正子も『かくれ里』(講談社文芸文庫)に、神武天皇社について書いている。《なぜそんな所に興味をもったかといえば、神武天皇が即位されたのは、今の橿原神宮ではなく、おそらくこの柏原の地だからである。何度も人に尋ねながら行くと、その社は、柏原の町中の、藤井勘左衛門氏という家の前を入った、小路の奥に鎮座していた》。何を隠そう、藤井勘左衛門氏こそ、国見山さんの曾祖父でいらっしゃる。ご自宅で白洲正子に応対されたのは、国見山さんのお母様だったそうである。サインはいただいたのだろうか。


神武天皇社本殿。トップ写真は参道から撮った拝殿。写真はすべて国見山さんが撮影されたもの

《村の鎮守といった格好で、みすぼらしい社殿があるだけだが、畝傍の裏にひっそりとかくれて、村人たちに「神武さん」と呼ばれて護られている姿は、土豪に擁されて即位した磐余彦の、ありのままの姿をほうふつとさせる。人も知るように、現在の橿原神宮は、明治の中頃できたもので、地名も橿原ではなく、白橿の村といったと聞く。どういういきさつで、そこが正しい宮跡とされたか、私は知らないけれども、徳川時代にはすでにわからなくなっていたらしい》。神武天皇の宮=柏原説の論拠は、鳥越憲三郎氏(大阪教育大学名誉教授)の『神々と天皇の間』(朝日文庫)に詳しい。


神々と天皇の間―大和朝廷成立の前夜 (朝日文庫)
鳥越憲三郎
朝日新聞社
神武天皇は大和を平定したのち、橿原宮で即位された。『日本書紀』によると、「夫(か)の畝傍山の東南、橿原の地(ところ)は、蓋し国の墺区(もなか)の可治之(みやこつくるべし)。すなわち有司(つかさつかさ)に命(ことお)せて、帝宅(みやこ)をつくり始む」とあり、『古事記』にも「畝火之白檮原宮に坐しまして天下治しめしき」と記している。そのため畝傍山の東南麓に橿原神宮が建てられたが、『日本書紀』の記す東南は西南を誤ったらしく、実際の橿原の土地は畝傍山から約四キロメートル西南にある柏原村のようである。本居宣長も明和九(1772)年の『菅笠日記』の中で
  
うねびやま見ればかしこしかしばらの、ひじりの御世の大宮どころ、今かしばらてう名はのこらぬかととへば、さいふ村はこれより一里あまりにしみなみ(西南)の方にこそ侍れ、このちか(近)き所にはきき侍らず。

とのべているが、その柏原はいまの橿原市域ではなく、御所市に属し、古くは柏原郷と呼ばれた。天平10(738)年の『東大寺奴婢帳』に大倭(おおやまと)国柏原郷とあるもので、そこには柏原造(みやつこ)の名さえみえる。さらに「続日本紀」によると、その25年前の和銅6(712)年11月の条にも、柏原村主(すぐり)の名がみえているので、柏原の地名は古い。

その柏原村を『和漢三才図会』(1713年)は「柏原、高市葛上郡界也」と記し、『菅笠日記』よりも古い享保21(1736)年の『大和志』では、すでに「橿原宮。在柏原村」とのべている。そのため、その後の『大和名所図会』や『西国名所図会』なども、すべて柏原説を踏襲している。そうしたことから、この地が橿原の宮址に擬せられて、いつのころ建てられたのかわからないが、集落の中に神武天皇社という小さな社まである。社頭には、神式天皇の名をしめす「祭神 神倭伊波礼毘古命」と彫った石柱が立っている。(中略)

集落の北側に13メートルの丘がある。神武天皇はこの丘に登って国見をされた。『日本書紀』によると、

卅有一年夏四月、乙酉朔。皇輿巡幸(すめらみことめぐりいでま)す。因りて腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登りまして、国の状(かた)を廻望(めぐらしおせ)りてのたまわく、研哉(あなにえや)、国之獲矣(くにみえつ)。内木綿(うちゆふ)の真迮国(まさきくに)といえども、なお蜻蛉(あきつ=トンボ)の臀呫(となめ=交尾)せる如くあるか。これによりて始めて秋津洲(あきつしま)の号(な)あり。

と記しているが、「腋上の嗛間(ほほま)丘」の腋上(今は掖上)も、柏原の西に接する古い地名である。しかも、この丘の西半分は字本馬(ほんま)といい、丘すそに本馬村があり、いまは御所市に入る。『日本書紀』のホホマがホンマに訛ったものだといわれてきたが、それは事実であろう。その本馬の丘から御所市の町にかけての広い水田地帯が、日本の国号の起こりとなった「秋津洲」と呼ばれたところである。



拝殿は約5年前に建て替えられた。向こうの山が、掖上の本馬の丘(腋上の嗛間丘)

うーん、なるほど。白洲正子だけでなく、『大和志』(江戸幕府が編纂した地誌)も、古事記研究に一生を捧げた本居宣長も「柏原説」だから、これは有力な説なのである。「掖上の本馬の丘」(秋津島の伝承地)が残っている、というのもすごい。ちなみに『角川 日本地名大辞典』で「柏原(御所市)」を引くと《柏原は柏樹の密生地であった。現在も地下に柏の巨樹が埋まり、上前柏・下前柏・前柏・才柏などの字名が残る》《神武天皇の橿原宮は現在橿原市に比定されているが、江戸期には当地に比定する説が有力であった(大和志・大和名所図会・西国名所図会・大和遷都図考・菅笠日記など)》。

神武天皇社(地図はこちら)には、御所市教育委員会と御所ライオンズクラブが、こんな看板を建てているそうだ。《神武天皇社 祭神は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト=神武天皇)である。葛城王朝の初代である神武天皇の即位した場所であるといわれている。本殿は流れ造りで4尺に3尺。天保4年(1833)9月正遷宮の棟札がある。境内社に火産霊社、厳島社、ホンダワラ社がある。ホンダワラ社は土佐街道の南側にありサワリの神とも称する。祭神はアヒラツヒメノ命。王城院・地蔵堂が側にある》。


越智山から搬出した巨石

《社殿の巨石は明治年代に「越智山」から搬出したもの。本社の南にある字「ヨウバイ」は神社をふしおがんだところ。字「御神酒田」は神社に献上するおみきの米をつくった田であるという。享保21年(1736)の大和誌には「橿原神宮柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和9年(1772)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記している。里の北西に143メートルの本馬山がある。神武天皇が腋上の嗛間丘に登って、国見をしたといわれているが、今でもこの地方を掖上という》。


嗛間神社の入口


嗛間神社の祠。アヒラツヒメが住していた場所ともいわれる

ホンダワラ社は「嗛間(ほほま)神社」という境外摂社である。祭神のアヒラツヒメ(阿比良比賣)は、神武天皇のお妃である(正后ではない)。この神社の管理もされている国見山さんからは《嗛間神社は神武天皇の妃である「アヒラツヒメ」が住まいしたところといわれています。この妃は他人の結婚に非常に嫉妬深い人だったそうです。そのため結婚時にどうしても神社の前を通らざるを得ない場合には、幕を張ったようです。また、この前を迂回するため「嫁入り道」といわれている道もあります》というメールをいただいた。嫉妬深いから「サワリの神」なのだろうか。


嫁入り道

ずいぶん長くなってしまった。「神武天皇の宮=御所市柏原説」の検証は以上である。本居宣長や白洲正子が「比定」した神武の宮跡、ぜひいちどお邪魔して周辺を散策(探索)してみたいと思う。知れば知るほど、記紀はおもしろい。
国見山さん、貴重な情報をご提供いただき、またわざわざ写真を送ってくださり、有難うございました!

※「神武天皇の宮=御所市柏原説」を紹介するサイト
1.歴史楽(ホームページ)「神武天皇社(柏原)」
2.七里四方(ブログ)「神武天皇社と嗛間神社」
3.白洲正子が愛した大和のかくれ里(ホームページ)「葛城のかくれ里」
コメント (2)
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