【1951-1973】
Willie MAYS
~あなたが、今までに見た野球選手の中で
最高のプレーヤー誰だと思いますか???~
記者にこう聞かれたウィリー・メイズは、
迷わず、こう答えた。
「俺だよ」
1951年から1973年にかけて
常にメジャーリーグのトップ・スターの座に
君臨し続けたウィリー・メイズ、
通算660本のホームランを放ったパワーは言うに及ばず、
生涯打率.302、合計で10度の3割をマークした確実性、
4回の盗塁王を獲得したスピード、
12年連続のゴールドグラブに輝いたばかりでなく
メジャーリーグ外野手、史上最多の7290の守備機会を誇るフィールディング。
......まさに史上最高のパーフェクトプレーヤーといえよう。
メジャー入りする前から、野球のみならず、
バスケット・ボールやフット・ボークでも実力を発揮していたメイズ、
卒業後は、ニグロ・リーグのブラック・バロンズに所属していたが
ニューヨーク・ジャイアンツがその才能を買い、
1950年、契約を結んだ。
ルーキーイヤーは、22打席連続無安打を記録するなどの
序盤の不振を乗り越え、見事、20本塁打をマークし、
文句無しの新人王を獲得し、早くもチームの中心選手になった。
2年目のシーズン途中から、兵役に就くため、チームを離れるが、
兵役から帰った54年には、打率.345を打ち
早速初タイトルの首位打者とシーズンMVPを獲得。
この年のメイズは、前半戦だけで36本のホームランを打っていたが
監督のレオ・ドローチャーの指令で、後半、長打狙いの打撃を封印し、
出塁に徹した結果の高打率であった。
また、この年、ジャイアンツは世界一に輝くのだが、
メイズはワールド・シリーズ初戦であの『ザ・キャッチ』を演じ、
一躍メジャー屈指のスーパースターの座に躍り出たのであった。
翌55年には打率.319 51HR 127打点で本塁打王を獲得、
56年、36本塁打を放ちながら40盗塁をマークし盗塁王を獲得、
57年、打率.333、35本塁打、38盗塁で2度目の盗塁王、
58年、打率.347、29本塁打、31盗塁で3度目の盗塁王、
59年、打率.313、34本塁打、104打点に加え、27盗塁で、4度目の盗塁王を獲得し、
まさに手がつけられないオールラウンダーぶりであった。
また、持ち前の明るいキャラクターで、
マスコミやファンにジョークを交えながら接し、
試合が終わると、球場付近の路上で子供達と、
スティック・ボール(お遊びの野球)に興ずる姿は、
親近感をわかせ、その人気はますます高まった。
オールスターには当然のごとく、史上最多の20回出場を果たしている。
59年、ジャイアンツがサンフランシスコに移動すると
メイズの打撃は円熟期を迎える。
61年、打率.308 40本塁打 123打点の好成績を残すと、
62年に打率.304 49本塁打に、キャリアハイの141打点をマークしたのをはじめ、
65年に打率.312 52本塁打と自己最多ホームランを記録するなど
66年まで8年連続で打点100以上を叩き出し、
4度の40HR以上をマークした上に
6度の打率.300以上、62、64、65年と3度の本塁打王に輝き、
65年には自己最多の52本塁打を放ち、2度目のシーズンMVPに輝いている。
当時、メジャーの選手達から「最悪の球場」と言われた
強風吹きすさぶキャンドル・スティック・パークが本拠地だった...
という、ハンデを背負いながらの猛打なだけに
その価値は高いといえよう。
また、ジャイアンツがニューヨークを本拠地とし続けていれば
ベーブ・ルースの記録を最初に破ったのはメイズだった...
とも言われている。
もっともそれは『if』に過ぎないのだが.......。
チーム事情により盗塁の数は減ったが、
アグレッシブな走塁は衰える事なく、
常連となっていたゴールド・グラブ賞も途切れる事なく受賞し続けている。
オーランド・セペダやウィリー・マッコビーと共に
ジャイアンツの主軸として活躍するだけでなく、
ハンク・アーロンと両輪で、球界を代表する
大打者の座に君臨し続けた。
67年、36歳になったメイズは、
この年あたりから徐々に成績が下降し始める。
引退した73年まで、30本塁打も100打点も
マークする事が出来なかった。
常に全力プレーを心掛けた金属疲労の結果であった。
が、極端な投高打低の年であった1968年に
打率.289、23本塁打で、気をはいたり、
40歳になった71年に23盗塁をマークするあたり、
その身体能力の高さに驚きを隠し得ない。
現役の晩年は、ニューヨーク・メッツに移籍、
ニューヨーカーは、衰えが見え始めたメイズを
暖かく応援し続けた。
そしてメイズもルーキーイヤーのような溌溂としてプレーで
ファンに応えたのであった。
ウィリー・メイズはアスリートであったばかりでなく
ファンキーなダンサーのような選手だった。
ファンはそのダンスに酔いしれ、
それは、引退後、30年以上経った今も語り継がれているのだ。
通算3283安打、660本塁打、1903打点、338盗塁。
1979年に野球殿堂入りを果たしている。
Willie MAYS
~あなたが、今までに見た野球選手の中で
最高のプレーヤー誰だと思いますか???~
記者にこう聞かれたウィリー・メイズは、
迷わず、こう答えた。
「俺だよ」
1951年から1973年にかけて
常にメジャーリーグのトップ・スターの座に
君臨し続けたウィリー・メイズ、
通算660本のホームランを放ったパワーは言うに及ばず、
生涯打率.302、合計で10度の3割をマークした確実性、
4回の盗塁王を獲得したスピード、
12年連続のゴールドグラブに輝いたばかりでなく
メジャーリーグ外野手、史上最多の7290の守備機会を誇るフィールディング。
......まさに史上最高のパーフェクトプレーヤーといえよう。
メジャー入りする前から、野球のみならず、
バスケット・ボールやフット・ボークでも実力を発揮していたメイズ、
卒業後は、ニグロ・リーグのブラック・バロンズに所属していたが
ニューヨーク・ジャイアンツがその才能を買い、
1950年、契約を結んだ。
ルーキーイヤーは、22打席連続無安打を記録するなどの
序盤の不振を乗り越え、見事、20本塁打をマークし、
文句無しの新人王を獲得し、早くもチームの中心選手になった。
2年目のシーズン途中から、兵役に就くため、チームを離れるが、
兵役から帰った54年には、打率.345を打ち
早速初タイトルの首位打者とシーズンMVPを獲得。
この年のメイズは、前半戦だけで36本のホームランを打っていたが
監督のレオ・ドローチャーの指令で、後半、長打狙いの打撃を封印し、
出塁に徹した結果の高打率であった。
また、この年、ジャイアンツは世界一に輝くのだが、
メイズはワールド・シリーズ初戦であの『ザ・キャッチ』を演じ、
一躍メジャー屈指のスーパースターの座に躍り出たのであった。
翌55年には打率.319 51HR 127打点で本塁打王を獲得、
56年、36本塁打を放ちながら40盗塁をマークし盗塁王を獲得、
57年、打率.333、35本塁打、38盗塁で2度目の盗塁王、
58年、打率.347、29本塁打、31盗塁で3度目の盗塁王、
59年、打率.313、34本塁打、104打点に加え、27盗塁で、4度目の盗塁王を獲得し、
まさに手がつけられないオールラウンダーぶりであった。
また、持ち前の明るいキャラクターで、
マスコミやファンにジョークを交えながら接し、
試合が終わると、球場付近の路上で子供達と、
スティック・ボール(お遊びの野球)に興ずる姿は、
親近感をわかせ、その人気はますます高まった。
オールスターには当然のごとく、史上最多の20回出場を果たしている。
59年、ジャイアンツがサンフランシスコに移動すると
メイズの打撃は円熟期を迎える。
61年、打率.308 40本塁打 123打点の好成績を残すと、
62年に打率.304 49本塁打に、キャリアハイの141打点をマークしたのをはじめ、
65年に打率.312 52本塁打と自己最多ホームランを記録するなど
66年まで8年連続で打点100以上を叩き出し、
4度の40HR以上をマークした上に
6度の打率.300以上、62、64、65年と3度の本塁打王に輝き、
65年には自己最多の52本塁打を放ち、2度目のシーズンMVPに輝いている。
当時、メジャーの選手達から「最悪の球場」と言われた
強風吹きすさぶキャンドル・スティック・パークが本拠地だった...
という、ハンデを背負いながらの猛打なだけに
その価値は高いといえよう。
また、ジャイアンツがニューヨークを本拠地とし続けていれば
ベーブ・ルースの記録を最初に破ったのはメイズだった...
とも言われている。
もっともそれは『if』に過ぎないのだが.......。
チーム事情により盗塁の数は減ったが、
アグレッシブな走塁は衰える事なく、
常連となっていたゴールド・グラブ賞も途切れる事なく受賞し続けている。
オーランド・セペダやウィリー・マッコビーと共に
ジャイアンツの主軸として活躍するだけでなく、
ハンク・アーロンと両輪で、球界を代表する
大打者の座に君臨し続けた。
67年、36歳になったメイズは、
この年あたりから徐々に成績が下降し始める。
引退した73年まで、30本塁打も100打点も
マークする事が出来なかった。
常に全力プレーを心掛けた金属疲労の結果であった。
が、極端な投高打低の年であった1968年に
打率.289、23本塁打で、気をはいたり、
40歳になった71年に23盗塁をマークするあたり、
その身体能力の高さに驚きを隠し得ない。
現役の晩年は、ニューヨーク・メッツに移籍、
ニューヨーカーは、衰えが見え始めたメイズを
暖かく応援し続けた。
そしてメイズもルーキーイヤーのような溌溂としてプレーで
ファンに応えたのであった。
ウィリー・メイズはアスリートであったばかりでなく
ファンキーなダンサーのような選手だった。
ファンはそのダンスに酔いしれ、
それは、引退後、30年以上経った今も語り継がれているのだ。
通算3283安打、660本塁打、1903打点、338盗塁。
1979年に野球殿堂入りを果たしている。
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