藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

一枚、又一枚

2019-10-30 13:56:21 | 日記・エッセイ・コラム

 只今気温22℃。 着込んでいたトレーナーを、一枚脱ぎました。 朝は冷え込んで、作務衣の下に長袖シャツと、トレーナーを着込んでいたが、十一時を過ぎるといささか暑くなって、一枚又一枚と脱いだ。 昨日以上に快晴である。

       

  日差しが部屋の中に差し込み、その下で西遊記を読んでいる。 やっと、孫悟空が五行山の下から解放され、三蔵法師のお供を始めたが、山賊を懲らしめたのは良いが、皆殺しにしてしまった。 三蔵法師の説教に腹を立てた悟空が飛び出していったところまで読み進んで来た。 気が付いたのは、一巻に十話ずつ入っていて全て読むには百話読まなくてはならない計算になる。 文調は軽やかで、講談師がそのまま演じればよい調子である。 説話の間には、詩が入っていて、これがその時の状況を的確に表しているのが面白い。 理屈っぽい話は無くなった。 後はどんどん読むだけだろうとは思うのだが‥…。 そうはいかのきん○○。 そんな感じもするにはするのだが。

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「ヒュー‥‥ヒュー」

2019-10-30 04:22:35 | 日記・エッセイ・コラム

         金剛界曼荼羅

 午前三時、我が家の玄関先であろうか、「ヒュー‥‥ヒュー」と、鹿が鳴いた。 その声で目が覚めた。 冬が近づいてきて、山の食糧を食べつくしたのか、はたまた美味しい食べ物を探して玄関先までやって来たのか‥…そんな事を考えながら布団の中で西遊記を読み始めた。 玄奘が、太守から三蔵の号を与えられて、西に向かい旅立つところまで進んで来た。 観音菩薩から小乗の説破を非難されて、大乗の経文を取りに旅立つのだ。 小乗仏教と大乗仏教の違いは、高校時代講義で聞いたが、はるか昔の物語で、少しも覚えていない。 またまた、研鑽すべく課題が出てきた。 昔の講義を思い出して見ようと深呼吸をしてみたが、‥‥‥自分だけの幸せを祈るのが小乗で、同じ船に乗り合わした、全ての人のために祈るのが大乗くらいしか思い出せない。 それも正しいかどうか、判然としない。 またまた勉強のやり直しをしなければいけない様だ。 いかなる本を買ってくればいいか‥‥。 若き日に、広島の西にある三滝寺の、佐藤典俊和尚に親しくしていただいていた。 暇が有れば、出かけて行って、境内の中にある無縁被爆者の墓掃除をしたりしたが、そんな事を思いながら、和尚を懐かしむとともに、其のころもっと本を読んでおけばよかったと後悔している。 和尚は戦前、中国大陸を托鉢して歩き、ゴビ砂漠を放浪したと聞いている。 将に西遊記の中で生活されたのだろう。 そんな事を思い出しながら瞑想して居たら、再びもの悲しい声が、「ヒュー‥‥ヒュー」と聞こえてきた。 少し遠のいたところの様だ。

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晴天の恵みか、はたまた西遊記の霊気のお陰か

2019-10-29 17:09:33 | 日記・エッセイ・コラム

ここ数か月の中で本日、至って傷みが軽い。 不思議である。 午後三時に西遊記第一巻を読了した。 その過程で、「曼荼羅」に行きつき、虜になったが、おかげで何故に「観音菩薩」が如来の使いとして長安へ赴いたのか初めて理解できた。 摩訶不思議と、今朝から全身の痛みが軽く、気分も爽快に過ごしている。 「曼荼羅」を拝み、「観音菩薩」の霊気が私まで伝わったのだろうかと思えるほど体が軽く感じている。 「胎蔵界曼荼羅」は、少しわきに置いておいて、「金剛界曼荼羅」を少し掘り下げて、学んでみなくては、これからの西遊記が十分に理解できそうにない気がしてきた。 「金剛頂経(こんごうちょうぎょう)」という経典に書かれた28種類の曼陀羅の中の九つが「金剛界曼荼羅」だそうだ。 縦横参列、9マスの世界だそうだ。 一段目は、四印会、一印会、理趣会。 二段目は、供養会、成身会、降(ごう)三世(ざんぜ)会(え)。 三段目は、微細(みさい)会(え)、三昧耶(さんまや)会(え)、降(ごう)三(さん)世(え)三昧耶(さんまや)会(え)となっているそうだ。 今夜はこれらをゆっくりと調べてみるつもりだ。

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東京が羨ましい

2019-10-29 12:28:38 | 日記・エッセイ・コラム

 曼荼羅にどっぷり嵌ってしまったようだ。 調べていくうちに、東京には途轍もない美術館がある事が判った。 練馬区に、「真言宗智山派慈雲山曼荼羅寺観蔵院と言う寺院が存在し、そこには曼陀羅の美術館が有るそうだ。 「うーむ」これが地域格差と言う物なのかと思い始めている。 教育施設、体育施設、文化施設、‥…、どれを採っても、中央集中し過ぎだろう。 地域の活性化の為にも、災害対策のためにも、地方分散を行うべし。 例えば、大阪は経済関係の資料や、株取引の関係施設、名古屋は、自動車を始めとする交通関係の諸施設等々、国の施策を見直すべし。 日本全国一度見直して、その為の国土再構築を行うことが重要だろう。 災害多発国家に成りつつあるこの国を作り替える気概を政府に持って貰いたいものだ。 東京砂漠から東京オアシスへの転換を是非ともやってもらいたいものだ。 そんな事をベットの中で考えていた。

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この世の中心は

2019-10-29 07:50:16 | 日記・エッセイ・コラム

 この世は、胎蔵界、金剛界の二つから出来て居るらしい。 その中心には常に、大日如来がおわしまして、‥…だそうだ。 胎蔵界とは、母親の子宮のごとく愛に包まれた世界で、金剛界とは何者にも傷つける事の出来ない、ダイヤモンドのごとく光り輝く知識の世界だそうである。 この世界を全てに悟った、大日如来様が中心においでまして、この世界を住みよい世界にすべく努力されているそうだ。 が、時として如来様のお力が、行き渡らない場所が有る。 そこには経典が無いためだそうである。 何故ないのか?、沙悟浄が天界から追放された後、空腹に耐えかねて旅人を捕らえて、喰ってしまった中に、九人の僧侶がおりその僧侶は、経典を得るために西方を目指して旅の途中だったそうである。 沙悟浄が、如来様の尊い教えを遮断していたことになる。 その旅人と九人の僧侶の食べかすを、水に流したが、九人の僧侶のドクロだけが浮かび上がってきて、流れなかったそうだ。 それを観音菩薩の指示でひもを通して首から懸けて、観音様のもとで得度したそうである。 その事で、九個のドクロの首輪?の疑問が解決したが、そんなこんなで、なかなか先には進まない。 ところで、如来様の力が伝わっていなかった処とは、話の展開から中国から東を差していることが読み取れる。 ‥‥‥将に日本もご多分に漏れていなかったようだ。 未だにその傾向はある。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏‥‥‥。

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