藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

憤りの中で廣島市長の平和宣言を聞く。

2012-08-06 23:04:00 | 社会・経済

 本日八時十五分から始まった原爆犠牲者追悼式の中での、広島市長のメッセージの中身の無さに憤りさえ感じた。

 市長の読み上げたメッセージは、過古 被爆者が書き残した文章や、語り部が語った文言の羅列でしかなく、自らの心からの言葉は 微塵も感じられなかった。六十七年前 一瞬にして、この世から消えていった同胞を思う時、普通の人間ですら 怒りと悲しみがわいてくるはずである。 その感性の無い人間が、広島市の頂点にいると思うと悲しみさへわいてくる。 歴代の市長が全て良かったとは言わない。 右に流れたり、左に流れたりしたが、「ノーモアー・ヒロシマ」の声は間違いなく心の底からの叫びであった。

 私と同じ被爆者がどの様に聞いたか、これから終戦記念日に向け批判が高まることは事実である。

今日、「ノーモアー・ヒロシマ」は死んだ。

 さる七月二十五日、「原爆の子の像」の前で行われた「碑前祭」で読み上げられた子供たちのメッセージの方が、「ノーモアー・ヒロシマ」「ノーモアー・フクシマ」を自分たちの言葉で訴えていた。

広島市長 貴方の言葉は、ヒロシマの子供たちより劣っていると断言する。


原子爆弾と私の父

2012-08-06 06:59:07 | 社会・経済

昭和20年8月6日07時 私の父は、吉島飛行場に居た。昨日不時着同然にお降り立った零戦を、今一度点検し送り出そうと思ったからである。しかし飛行場にはそのす方は無かった。薄暗い夜明けと共に知覧へ向けて、飛びたって行ったのである。いつもなら、自宅を8時に出て、福島町を通り、観音町、吉島刑務所で、右折し飛行場まで、自転車で30十分。当時自転車は、軍隊では下士官以上のものだけが使用を許されていたらしい。父の階級は、軍で言えば中佐以上の身分であったらしい。吉島の工場の女子挺身隊員20名、高須工場の女子挺身隊員40名儀勇退40名が父の配下の元、飛行機のエンジンを組み立てていた。父は二つの工場を行き来し指導していたので自転車が与えられていた。その日宿直の整備士とお茶を沸かし始めたのが8時、ぼちぼち皆、出社してくるなと思っていた矢先「ぴかっ」と光り、間をおいて大音響とと共に屋根が落ちてきた。事務机と事務机の間にいたため宿直のものと二人とも無事であった。がしかし、屋根を素手で破り脱出するのに時間がかかった。

屋根から、脱出するとそこは地獄であった。出社途中、広島刑務所付近で被爆した挺身隊員は、皆後ろ半分が焼けており、それでも気丈に立っていた。

こういう時、私の父は頭の回転が速い、いち早く状況を把握し、この子達を江波の国民学校に運ぶ手段を考えた。「船だ」 吉島の飛行場と吉島町を仕切っているのは,堀川である。幾艘も船が舫ってあった。父は幼少期、同級生に網元の子息がいて、夏休みは、かれの家で過ごすことが多く、和船の操縦は自在であった。うめき声を上げる彼女たちを船に乗せて500m先の江波の港を目指した。しかし、江波の国民学校はすでに避難民を受け入れる余裕は無く、途方に暮れていると、二人の漁師が草津に運ぼうと言い出した。父が乗ってきた船の前に二隻の小さな伝馬船が繋がれ、その船で引かれて草津港に向かった。草津には昔から魚の「卸市場」があり、港が整備されていた。すでに其処には婦人会の救助隊が待機いしていて、手際よく受け入れてくれたそうである。原爆による学徒動員や、儀勇退女子挺身隊が多く犠牲になった理由に、当時動員されて人々は、広島駅、横川駅、己斐駅までは国鉄の列車でやって来て、その先は徒歩で市内を歩くことが義務図けられていた。一部の軍需工場や、長距離の参加者のみ路面電車に乗ることが許されていたらしい。それだけに建物疎開の場所に向かっている途上での被爆したものが多いいのである。かくして私の父の救護活動は、始まった。それは終戦の日を超えて、八月末まで続いた。隣家の娘さんなどは、県立高女に行っていたが、幟町付近で被爆、景勝地「縮景園」裏の川土手で、瀕死の状態である所を父が、夕方見つけ出し、牛田村の農家から、背負子を借りて背中に背負い、山陽本線の枕木の上を延々四キロ背負って助け出してきた。この女の子は家族の手厚い看病で一命をとりとめ、現在も健在である。この家は、食料品店をされていてご主人は南方で戦死されたが女で一つで三人の子供を育てられた。次女も父が、祇園の小学校に収容されていたところう見つけ出し、大八車で連れ帰った。こうして、己斐、高須両町内の被災者の多くを見つけ出し自宅に送り届けたようである。

そうした父の行為は、母は知っていたが、何処の何方とか具体的な名前は知らなかった。その間母と、長女、私は一山超えた沼田町伴、当時は伴村と呼ばれていた、父の妹の所に預けられていたからである。

これ等のことを全て知ったのは、父の葬儀のときである。300人を超える家族の知らない人々の参列を目の当たりにした時であった。その人々から、被爆当時の話を私は深夜まで聞かされた。助けられた人たちの感謝で渦巻く中、私の父へのの感謝の言葉にともに涙し、見送っていただいた。「情けは人のためならず。」人間死するとき、その値打ちがわかるとよく言われるが、実感させられた、父の葬儀であった。

葬儀の後、仏壇の中から「勲八等」の勲章が出てきた。表彰状とともに。

このようなものをまらったことさえ家族は知らなかった。

ただ、人命救助は二度警察署から表彰を受け、二度人命救助で表彰される事は、非常に珍しく新聞に載った。棺おけの中に、二度の人命救助の表彰状を入れて、荼毘に付した。今から7年前のことである。

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父の名も記帳され、この慰霊碑に収められている。波乱万丈、人のための人生がごとくであった父の魂の、安からん事を祈る今日一日である。