藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と私の父の8月5日

2012-08-05 14:27:51 | 社会・経済

旧町名水主町現在の加古町に建つ広島市文化交流館と、中区図書館です。67年前は、広島県庁と陸軍病院でした。平和公園から南に600mの所です。

Photo ここからさらに南に下ると、広島吉島刑務所、さらに南に吉島飛行場があった。原爆投下時、広島吉島刑務所には二名の米軍捕虜が居たが、原爆投下後相生橋の上で殴り殺され、さらし者にされた。67年前のこの時間、私の父は吉島飛行場で一機の零戦と格闘していた。この日10時頃飛行場の端にやっと辿り着いたという感じで、零戦が止まった。操縦していたのは年端も行かぬ若者で、人目で特攻隊員と知れたそうである。知覧まで行く予定がエンジンの調子が悪く不時着したのであった。

私の父は、そもそもが満州航空の整備士で、その中でも教官として後輩の育成を担当していた。その父がなぜ吉島の飛行場に居たかは、終戦の日にでも記事にするとして、話を前に進める。この零戦のエンジンの修理は、深夜にまで及び、こんなエンジンの飛行機で飛行させるなど考えられないほどの整備不良であったそうである。父は、この飛行場では、中島飛行機いまのスバル自動車の前身のエンジン組み立て教官兼、軍の飛行機の整備を担当していた。

父の自慢は、満州航空時代、零戦のエンジンを、一時間で組み立てて見せてところ、整備教官に任命されたそうである。入社6箇月目のことであったそうだ。昭和十八年に釜山にドイツの潜水艦でユンカースが運ばれてきた時も、その組み立てをしたのが自慢であったが、戦後航空路が再開されても飛行機関係には一切関わらなかった。どんな誘いも断った。母よくこの事を攻めたそうである。生活苦からで有ったらしいが、三原山に日本航空の飛行機が戦後初めての航空機事故を起こした時からは、攻めなくなったそうだ。父が航空機と縁を切ったのは、B29の巨大さに有った。

奉天郊外に、隼に体当たりされ墜落したB29の残骸の復元作業をさせられた時、敗戦を意識し、今後巨大な飛行機が、多数の人間を乗せて飛ぶ時代が来ることを予感し、その飛行機の整備士の責任の重大さを知ったそうである。

吉島飛行場に不時着した零戦の修理は深夜に終わり、帰宅するかそれとも、工場に泊まるか考えた結果帰宅した。この判断が父の命を救ったのである。この特攻機は翌朝7時に飛行場に来た父は、その姿を見ることが出来なかった。宿直の人間から、夜がしらけ始めると、飛び立って行ったときいた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする