藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

頭の中が混乱状態

2012-08-21 23:14:28 | 社会・経済

土曜日の経験以来、わたしの脳みそは混乱が続いているようである。

何を考えても纏まらない。古い事は良く思い出すが、昨日何をしたか皆目記憶に無い。行政書士試験の願書を郵送した事だけで、その他の事が思い出せない。

うーん!?。ついに後期高齢者現象が現れ始めたのであろうか。

63年前のこの時期は、何処で何をしていたかはっきり覚えている。昭和24年8月私は岡山にいた。母の姉と一緒に岡山に赴いた。

母の姉つまり伯母は、主人と連絡がやっと付き、岡山へ行く事になり、私を同行した。弟が生まれ、手が足りないからであった。どうゆう関係か、伯母の主人は私を大変可愛がってくれた。一時期は私を養子にほしいといい出し、それが原因で、我が家に出入り禁止となったが、その後も、一年に一度夫婦で広島を訪れ、校門の前で待ち伏せし、「旭旅館」で姉と私と二人は、母と父に内緒で会っていた。郵便局の預金通帳を作ってくれて、毎月小遣いを振り込んでくれた。それは、昭和三十年まで続いたが、その後父と母にばれてしまい、その後行き来が無くなったが、伯母が主人と死に別れ、広島に帰ってきてからは、この伯母にずいぶん可愛がられた。末の弟の子供などは、全て伯母が育てたようなものである。老後は、末の弟と我々兄弟で面倒を見た。87歳の大往生であった。

さてその伯母は昭和22年10月22日、ハルビンから引き上げてきた。その時の情景を、なぜか私ははっきりと覚えている。私2歳と6ケ月。船の名は、「宗谷」。そうです、南極観測船の「宗谷」だったのです。船は皆「宗谷」という物と六歳ごろまで思っていた。それくらい印象が強かったのであろう。

伯母の引き上げ時には、祖母と私の母、それに私は手を引かれて迎えに行った。姉は学校で行けなかった。

船上の甲板ではごく普通の人間が、ブリッジを降りてくる時は真っ白いお化けのような集団に変身していたので、怖くて泣いた記憶がある。

伯母が健在な時、その話をすると、ビックリされた。まったくその通りであった。DDTで真っ白くされた集団が降りてきたのである。面談は数分間だけで、直ぐに検疫隔離され、伯母は肺結核と診断を受けて、その後我が家で療養していた。伯母の主人は、満州航空きっての名パイロットで鳴らし、戦後一時期姿を隠した。戦犯に問われる可能性が有ったらしい。

満州航空は、日露戦争の名参謀、児玉源太郎の五男、児玉常雄が陸軍参謀本部付き 大佐を辞して渡満し、満鉄や、日本航空麦田平雄らによって設立され、伯母の主人も、児玉氏によって満州航空に招かれた事が、満州航空史に記載されている。

私の伯母は、私から見ても美人であった。宮島の「亀福」という一流旅館で働いている所を、法外な条件を提示され、奉天ホテルの客室係として、満鉄役員に引き抜かれて渡満したそうである。

ちなみに、「亀福」の娘さんが、石原慎太郎や、裕次郎のお母さんである。

それは祖母を養うためであったらしい。その覚悟は相当の覚悟で、避妊手術を受けて渡満した。一生独身を貫く覚悟であったらしい。女性単身での渡満は、2人目であったようである。昭和6年18歳であったそうだ。その後、昭和8年、後の主人、T氏が陸軍参謀本部付き、操縦士を離れ満州航空にやってきた。その人物は満空の伝説の人物で、最初からチチハルの飛行場と、ハルビンの飛行場の管理を任されたようである。本社会議の時、奉天ホテルに泊まり、伯母に一目惚れだったそうである。結婚を嫌がる伯母を強引にハルビンに同行し、白系ロシア人の別荘を買い取り、其処の管理人にしてしてしまった。部屋数が26あったそうだ。

河西街という一流別荘地である。ここで下宿屋をしていたが、下宿人の世話を一切してはならないといわれたそうで、私が理解できる年頃になると、あの下宿屋は、スパイのアジトだったのだろうと、話したことがある。

本宅は奉天の竜生街にあり、二週間に3日、ハルビンに行き、一階のホールのみ掃除して帰ってきていたようである。私の姉は良く同行して、松花江の護岸の杏の花が見事であったと今でも語る。

そのハルビンにいる時、ソ連軍が侵攻してきた。男勝りの伯母は、日本人家族を助けるため最後まで、ハルビンに踏みとどまった。そして昭和22年10月22日、宇品港に「宗谷」に乗って帰国した。

その伯母に同行していった岡山の1年半の暮らしは、夢の中の暮らしであった。

T氏の実家は、桃農家でも指折りの農家であり、地元の小学校にT氏が満空時代に寄贈した飛行機のプロペラが飾ってあった。

岡山県農協の戦後の発展に尽くされた丹原氏の話を聞く機会が有り、私の記憶する限りの話をしたところ、まったくその通りであった。

一度墓前に行きたいと思っているがいまだ果たせずにいる。

終戦の日から引き上げが始まり、いつまで続いたのかは、私は知らないが、二人の同級生のお父さんが、シベリアから昭和30年突然帰国され、戸惑っていた友の顔が、今も目に浮かぶ。彼らも今や67歳当時の気持ちを聞いて見たい気がする。