藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と私

2012-08-04 14:51:30 | 社会・経済

市役所職員の慰霊碑には、遺族からの献花が始まっていた。慰霊碑の後ろには赤い「夾竹桃」が67年前の夏を思わせるように咲き誇っていた。

001 昨日広島市役所を訪れた。原爆慰霊塔の墓碑に記載されている、お寺をいろいろな方法で探してみたが、探す事が出来なかった。柳井市役所も協力いただいたが、該当する寺院を特定できなかった。残るは唯一つ。記載違いである。

専唱寺と記載された寺に何故一千体を超える被爆者の遺骨が残されたのかその事実が知りたかったのである。と同時に、原爆の齎した悲惨な事実が風化する中で、今なら事実を記録に残せると思ったからである。現に私は、昭和36年5月6日、朝礼の途中で倒れ、意識が回復すると、大学病院のベットの上であった。救急車で日赤病院へ運ばれたが、原爆病院に空き室が無く、大学病院の被爆内科に転送されたのであった。病名は「再生不良性貧血」白血病の一種である。普通「白血病」は、未熟な癌化した白血球が大量に増産されるタイプと私のような胸板骨の造血機能の損傷で起こるタイプなど色々有るらしい。

未だに患者であった私ですら解らない。私の場合胸板骨の造血機能が失われた。ただ大腿骨の頭頂部の造血機能は正常であった。男子はおおよそ20歳、女子は十八歳くらい迄、大腿骨の造血機能は存続し、その後大人になると胸板骨のみで造血するらしい。私の場合、運よく胸板の造血機能が、回復したため一命を取り留めた。前後三年間に九ヶ月の入院を余儀なくされた。

004 「健康管理手帳 石綿」と「被爆者健康手帳」です。私のカバンの中には常にこの二つの手帳が入っている。

006 「被爆者健康手帳」のなかには、被爆地点が明記されている。私は2.5kmのところで被爆した。

合計九ヶ月の闘病中に知り合った方々で今日健在である方は居ない。何れも慰霊碑にその名を記帳され眠っている。

私の同級生の女の子の中には、「被爆者健康手帳」の交付を近年まで受けていないものが居た。両親が「結婚差別」を心配して、あえて申請しなかったのである。特に体内被曝の人が多い。「原爆小頭児」をご存知であろうか。妊娠初期に原爆の洗礼を受けた胎児が、放射能の影響で小さな頭で生まれてきた。私の住んでいた町内にも、二人の「原爆小頭児」が居たが、その子が毎朝、二階の窓から登校する子供たちを見ていた光景は、今も忘れることが出来ない。六年前の同窓会で、体内被曝し、「被爆者健康手帳」を、取得していない同級生が居たのには驚いた。貴方も、「被爆者健康手帳」が取得できますよ」、と言うとその様な制度は知らないと言う。結婚して他府県で生活すると、原爆から遠ざかり、救済制度からも遠ざかる現状を知った。「被爆者健康手帳」の取得方法を教えて、ぜひ取得することを勧めたところ、後日お礼の電話があった。爆心地から3km以内の被爆者は、医療費が免除される。国により被爆者になされた国の責任のとり方の一方法である。

福島原発の被爆者に対する保障も、このような形しかないのであろうか。しかし未だに国は、いかなる保障の目安さえ示していない。

広島、長崎の被爆者の多くが、経験してきた苦しみを三度、福島に押し付けているとしか思えない。