藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

原子爆弾と供養塔

2012-08-01 13:55:38 | インポート

Photo 原爆死没者の中に、約7万人分の遺骨が引き取り手も無く、此処「平和公園」の原爆供養塔に眠っている。

私の母校、広島市立己斐小学校は、原爆投下直後から、被災者で溢れたと、聞かされてきた。強い雨が降ると、遺骨がグランドから出てきていたが、昭和30年に遺骨収集の発掘がされたと、過去このブログで紹介したが、詳しく知るために「原爆供養塔」へ出かけた。そこで目にした事実は、私の知らないことと、掲示された記録で思い出したことが入り混じり。複雑な気持ちになった。

Photo_7 まず私の知らなかった事は、昭和24年に、己斐小学校の校庭の遺骨収集が行われ、身元不明の遺骨2,000柱が発掘され、それが旧原爆供養塔に収容されており、私が知っていた校庭での遺骨収集は、似島千人塚と呼ばれる身元身元不明者の遺骨収集作業と平行し、収集されづに残った物の収集作業であったことが解った。その年、己斐小学校で火葬され、氏名の判明している者の遺骨が、己斐西本町の善法寺に保管されていることが解り、500柱が「原爆供養塔」に収められた。これ等を考慮に入れて考えるに、己斐小学校の校庭で火葬された数は、少なくとも3,000体を超える。何故かと言えば、遺骨を持ち帰られたものが数多くあるからである。

いかに、多くの人々がこの焼け残った、己斐小学校を頼りそして死んで行ったかを思う時、湯川秀樹博士の歌 

  「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 

                   平和を祈る人のみぞ ここは」

Photo_8 を 思い出す。

私の父は、あの日多くのヒバクシャを助けたらしい。父の「通夜」の日、私たち家族が知らない人々で会場が埋め尽くされ、葬儀は一段と大きな部屋に変更した。300人を超える人々に見送られ、父は、旅立って行った。

あの原爆の日のことを多く語ることの無い父であったが、いたる所で多くの人から当時のことを聞いて、私は成長してきた。

私のブログにコメントをお送りいただいている、皆さんに緊急のお知らせです。

一部の方からコメントを送っても、届かないケースがあるとのご指摘で、「OCN」に原因の調査をお願いしていましたが、本日原因の報告があり、5月15日から6月10日の間にサイバー攻撃を受け、その為セキュリティーが働き、写真を多く掲上されているサイトからのコメントを自動的に拒否している状態だそうです。

コメントを送れなっかた場合、方法は一つしかないそうです。その方法は、メールアドレスにてお送りいただき、それを私がブログに掲上する方法だそうです。お手間ですが、その方法をお試しください。

メールアドレス   issin.ko@iris.ocn.ne.jp    でコメントの受付をします

 

コメント (2)
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