藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

例年顔をみせるモンシロチョウがまだ姿をみせない。

2012-04-21 20:50:58 | 社会・経済

例年なら四月の中旬には、我が家の小さな庭に姿を見せるモンシロチョウが、姿をみせない。

どうした現象なのか不思議である。

連日の石綿患者の救済の為の、広島県下の地方自治体の、議員連盟の発足の目鼻が付き始めるとともに、私の体が悲鳴を上げ始めた。オーバーワークならぬオーバーヒート。しかし、体を誤魔化しながら、今日も一組の御夫婦と面談した。御主人が、両肺のセンガンと診断を受け、胸膜肥厚の傾向が見られ、過去に20年を超える建設関係、特にリホーム関係の仕事をされてこられたそうである。診察を受けた宇土医師からの紹介で健康管理手帳」(石綿取得のお手伝いをする事になったのである。いずれ我が身のたどる先を見ているようであった。それが年先なのか、はたまた10年先なのかは神のみぞ知るである。それまでは、人でも多くの石綿曝露患者の掘り起こしをして行く気力の継続が出来る事を望むばかりである。体の自由が利かないときこそチャンスだ今日実感した。WEBサイトでついに、戦前ドイツですでに発がん性について研究され、石綿の使用禁止が準備されつつあった事が判明した。しかし、第二次世界大戦後の混乱の中で、この問題は置き去りとなり、ドイツの戦後の経済活動の中で省みられなくなったが、1960年台の初頭、WHOが石綿の発がん性を認定し、その後アメリカでは、石綿企業が健康被害賠償訴訟の対象となり、石綿企業が賠償に応じ切れなくなり、次々に破綻していったことも分かってきました。1986年国際労働機関(ILO)は、石綿条約を採択し、1986年発効されたが、ただただ日本だけが、2005月まで批准を引き伸ばし、被害を増大させた。ただしこの国際法のメンバーに、台湾や、中国、など当時の後進国は参加しておらず、このことが2010年トヨタ自動車の修理用ブレーキ部品の中に、台湾製のアスベストブレーキシューがあることが判明し、又、中国に進出した、自動車部品メーカーの中からも同じ事件が発生した事実を知る事が出来ました。

又、国会の審議記録の中に、石綿に関する多くの資料が眠っていました。国は、八田 貞義衆議院議員の質問の中で、石綿の発ガン性を認識していた事がはっきりと明記されていました。昭和31年21日火曜日午前1044分開議 予算委員会第分科会の中での質疑の中にはっきりと国の対応の遅れを認めています。これが後昭和45年、当時の社会党の石綿禁止法案提出準備へと続くのですが、この法案は、自由民主党と社会党との話し合いの中で、提出されづその後被害が拡大して往ったのです。しかし資料を追求する中で、当時の公害対策特別委員会で、田中 昭二議員が厳しくアスベスト使用の自動車タイヤ粉塵が、年間30万トンに達している事を指摘し早急な対応を求めています。この様な国会の記録を読んで行くと、1987年横浜輸出用保管庫に大量のブリジストンタイヤが、年以上保管され問題となった記事に行き当たりました。つまり、前年発効した、石綿条約違反のブリジストンタイヤは、外国に輸出できなくなり、長きにわたり関税保管庫に居座っていたのです。国会の審議記録を読み進むと、ニューヨークの空気中には、検出されない石綿が東京ではすでに検出され、現在の規制値を大幅に超える量が検出された事が、国の調査機関から国会に報告されていました。

当時の自由民主党が、国民の健康よりも企業優先の政治を官僚と共に行って来たかがはっきりとしてきます。その結果が今日の肺癌患者の爆発的発生に繋がった事を皆さんで考えてみる必要があります。

コメント
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