WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

「明智光秀の生涯と丹波 福知山」

2020年05月17日 | 面白かった本

「明智光秀の生涯と丹波 福知山」(明智光秀解説本刊行会議)発行:福知山市役所

NHK大河ドラマ「麒麟が来る」、快調のようですが、その大河ドラマ誘致を目的として刊行されたそうな。
ログハウスお手伝いの宿所に置かれていたのでなんとなく手に取ったのですが、身びいきではなく歴史資料を丹念に追って書かれており、カラーの写真や図版も使って分かりやすく興味を持てるように書かれており、歴史書としてとても良くできた本です。大河ドラマに合わせて読むとより興味深く理解も深まると思います。

<私の光秀評>
光秀はなぜ謀反を起こしたか?
光秀は超保守派の官房長官。信長の革新志向についていけなくなった。

封建制度下での群雄割拠の戦国時代、大名たちの国経営の基本的な考え方は、まずは「自国の強化、富国化」であり、日本の外の地球世界各国に対向して日本という国を支配、経営するという発想(麒麟が来る)はほとんど無かった。

一方、朝廷や、形としては朝廷に従い武家による荘園分国をまとめる役割を負っていた将軍(家)は、一部の荘園分国が強大化して支配が及ばなくなることには相当な脅威を感じていたはず。そこで、荘園分国をコントロール可能な勢力範囲に留めておきたいという点で一致した朝廷と将軍家は、手を結んで強大化しそうな大名の弱体化ないしは排除を計ったと考える。

光秀は基本的には超保守派で、朝廷(天皇)の存在は絶対であり、将軍は朝廷の武家分国支配を強力に補佐するのが役割と考えていた。だからこそ、ある意味革新派で朝廷(天皇)制度を(利用はするが)軽視して、個人の強権での国家統一を指向した信長を脅威に感じ許せなかったのではなかろうか。
「麒麟」であろうとした信長に対し、光秀はむしろ「麒麟など来てもらっては困る」派だった。NHK大河ドラマでは、まだ「麒麟」に対する考え方は見えてきていないが、少なくとも光秀の立場と考え方からはタイトルは、「麒麟が来る」ではなく「麒麟など来るな!」だった。もっともそれでは視聴率は取れないだろうが。

世界の中での日本国という考え方が、日本史の中で現れてくるのは信長あたりからで、秀吉は明確に世界に目を向けた富国化、強国化を意識していたであろうことは史実からもうかがわれる。
そうした観点からは、徳川時代は日本国としてはむしろ保守化、孤立化の時代へ少し逆戻りした時代であった。だからこそ朝廷ともお互い持ちつ持たれつ共存共栄で300年近い「太平の世」を継続できたのだ。
その鎖国太平の世であったればこそ独自の多様な大衆的日本文化をも花開かせることができた。しかしその一方で、欧米各国の、特に科学や技術革新面での進歩からは大幅に後れを取ることになってしまった。結果、明治維新後から現代までの日本人の心にそのトラウマ的影響、皇国史観を残すことになったのではある。
天皇制度(朝廷)は、時代ごとの強弱こそあれ、いまだに日本人の国と民族意識の根底として脈々として浸透、受け継がれており、現代も含めていつの時代にもこのせめぎあいが日本の政治と国家経営の底流となっているのである。この呪縛から逃れない限り日本の新しい未来は開かれないし、「麒麟」も来ないだろう。

 



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