WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

昔懐かしいチンドン屋さん

2021年09月19日 | えぶりでいず3丁目の夕日
出町桝形商店街で買い物をしていたら、昔懐かしいチンドン屋さんに出会いました。「チンドン通信社」様御一行。経営は大変でしょうが、何とか頑張って続けてほしい。


商店街「秋の感謝祭」の宣伝中。手作り感満載のビラもなんか昔懐かしい。


桝形商店街は、「三丁目の夕日」のような昔ながらの風情を残す商店街ですが、時代の流れで変わりつつもあります。それでも、四条通界隈とはまた違った人情味があり、商店街の方の努力でにぎわい続けています。
私ももう、四条界隈や繁華街からはとんと足が遠のいて久しいのですが、出町界隈にはよく来ます。同じようなアーケード街であっても、四条や繁華街は疎外感を感じるのですが、ここはなんか居心地が良くてほっこりします。

ホタル

2018年06月02日 | えぶりでいず3丁目の夕日

大津の百円市の後、知人のお誘いで「東高瀬川ホタルの夕べ」に行ってきました。大阪との水運商業振興のために角倉了以が作った東高瀬川。昔はホタルが乱舞していましたが、残念ながら数年前には見られなくなってしまっていました。
関係者のみなさんの努力でホタルも飛ぶようになり、今年は昨年より人出も多いようでした。
昨年から取り組まれてきたホタルの孵化、飼育は今回は残念ながらうまくいかなかったとのことでした。次こそはうまくいって、来年はより多くのホタルの乱舞が見られるよう願っています。




昭和展

2014年10月07日 | えぶりでいず3丁目の夕日

けいほくクラフトの会場となっていた「あうるけいほく」では、館内ロビーで「昭和展」が開催されていました(10月26日まで)。

昭和の茶の間。

囲炉裏は京北ならでは。私が少年時代をすごした昭和30年代の京都市内の民家では、さすがに囲炉裏の家はほとんどありませんでした。

でもまあ、丸いちゃぶ台に水屋、ゼンマイ式振り子時計は懐かしい。30年代にはまだ私の家にテレビはなく、家計に余裕のあった近所の友人の家に見せてもらいに行ったものでした。その友人宅には近所のビンボーなガキ共数人がよく集まってはテレビを視せてもらっていました。

「月光仮面」とか「少年ジェット」、「怪傑ハリマオ」、「ジャガーの眼」。内容は、今のバラエティー番組のお笑いコントレベルでしたね。でもワクワクドキドキしながら夢中で視てました。

 うちにテレビが入ったのはいつごろだったんだろう?NHKの「ジェスチャー」とかアメリカマンガの「ポパイ」とか「名犬ロンドン物語」はうちで視ていたような気が。
 大好きだったファミリー西部劇の「ララミー牧場」。ジェス・ハーパー(ロバート・フラー)の超カッコイイ二丁拳銃のガン捌きや淀川さんの「サヨナラ、サヨナラ、...」が今でも記憶に焼き付いてます。
 チャンネルの接触が悪くて映らなくなるとガンガン叩いて復旧させたものでした。そんな時代に育った私たちは、電化製品ってのは故障しても叩けば直るものっていう観念が植え付けられてしまった。パソコンやケイタイの調子が悪いと思わず叩いてしまうそこのオトーサン、同世代ですね

お宝?の数々。

水鉄砲霧吹き式殺虫剤噴霧器。

うちにあったのは先端がまさに霧吹きそのまんまの形だった。でも薬液は詰め替えできたし、今の使い捨てスプレー缶よりずっとエコだった。

パン焼き器。

チーズフォンデュー鍋のような形ですが、まさにダッチオーブンじゃないですか!
“都会っ子”だった私の子供時代にはこんなものは見た記憶はない。早くからテレビもあったようだし、京北って、田舎のわりには結構ハイカラだったのかも。

自転車の車輪。

タイヤは今で言う「ノーパンクタイヤ」!。ま、要するにチューブが無いただのゴムの塊。乗ってる間はさぞかし尻が痛かったんだろうな。リムはフックで開閉できるようになっていてタイヤ交換はフックをはずしてやったものと推測される。

赤紙。死出の旅への片道切符。

「興亜進軍」旭日旗。
安倍ちゃんはじめ“靖国派?”の方々には垂涎のアイテム。

統制、洗脳され最前線で“弾除け”や“人間爆弾”、果てはジャングルで飢え死にとまさに“犬死に”を強いられた。エライ人たちは口ばっかりでゼッタイに最前線には行かない。「慰安所」でも行かなきゃやってられるか、ってか。

大政翼賛、大本営発表、のお先棒を担ぐ伝統は現代も脈々と続く、文芸春秋社。
 

目次に「士族授産と転失業」の記事。「武士も食わねば高楊枝」ってか。

こんな広告も。
 
オボちゃんで有名な理研ビタミン、強力男性ホルモン飲んで立派な皇軍兵士におなんなさい。
スマトラでマラリアにやられたら、これ。

いやいや、食いもんさえ無いのに薬なんかあるわけ無いか。

「戦陣訓」

要するに、「国体護持のためには命を惜しんではならない」と書いてある。

「銃後」の国民のバイブル。

「防空マニュアル」なんか配らなければならない時点ですでに負けでしょうが。ヤレヤレ。お偉方はいっつも銃後の、そのまた後ろの要塞にお隠れあそばしているのよね。

中を見ると、

第1章 空襲判断、一、「空襲は必ず受ける」って、オイオイ。
以下、空襲されたときの対策がつらつらと書いてある。

“壊れかけのradio♪”いやすでに国もろとも壊れてしまったラヂオ。

これで敗戦の「玉音放送」が流された、のかな?「タエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノ」んだのはオマエぢゃねえんだよ。

そして、世の中は“コペ転”、「みんしゅしゅぎ」の時代へ。

ガリ版。学生時代にはお世話になりました。

「桑園」。北桑田郡学生会機関紙。

先の文芸春秋社「現地報告」と比べるとまさに“コペ転”。
ど田舎(失礼)京北にも革命の嵐が..。興味ある方はクリック拡大してお読みください。

 かの香港といい、熱くなるのはいつの世も学生達。そして熱き青年達もいずれは“オトナ”になっていく。「もう、若くはないさと~、君に言い訳したね~」。「イチゴ白書」ですな。
 今の京北は、「『死んだら靖国に祀ってやる。喜んで国体護持のために死ね』と約束したんだから左翼のバカどもが靖国のことをつべこべ言うな」なんて神主がいるくらい。ま、日本全体も似たようなもんか。

熱き若者がある一方で享楽の世界があるのはいつの世も同じ。

「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」

「てなもんや三度笠」はうちのテレビで視てました。大本営の時代に、胡散臭い理研ビタミンや男性ホルモンぢゃなく、これと「グリコ」があれば皇軍ももうチョイ頑張れた...かも。

ハイファイだぜい!。「ナショナルキ~ッド~♪」。昔ナショナル、今パナソニック。
17,900円は当時の大卒初任給くらいかな。

白物家電の王様、もう一発。う~ん、斬新なデザイン?

ライバル。昔東芝、日立、今じゃアイリスオーヤマ。


手回し搾り器。知ってる人は年バレる。これにテレビプラスして「3種の神器」と言った。

メグロYA。20万円!

ロータリー式ギヤチェンジを始めて開発した老舗だったが、ホンダなど後発メーカーの小型高性能化について行けずカワサキに吸収された。


“高級”歌声喫茶に500人!?

2008年01月31日 | えぶりでいず3丁目の夕日

 京都の有名ホテルが、団塊世代をターゲットに歌声喫茶を企画・募集したところ、定員300人を大幅にオーバーする申し込みがあったそうな。で、急遽第2部(200名)も追加することになったんだとか。いったい、ホテルの“何とかの間”でやる、会費3,500円もする「歌声喫茶?」って歌声喫茶なんだろうか?。そんなのになんでまた年寄りが500人以上も殺到するのか?よく分からない。古き良き時代へのノスタルジー?。

 歌声喫茶世代って、団塊さんの上限を含むもうちょっと上の世代だろう。私の年代は、団塊世代に入れられたり入れられなかったりする下限中途半端世代である。若い頃、歌声喫茶はすでにピークを過ぎていて行ったこともない。私達にとって歌声喫茶に当たるものはライブハウスであった。ブルースやジャズ、アングラ、フォーク、カントリーウェスタンなどのライブハウスがあちこちにできていてよく行ったものだ。特に京都には多かったように思う。全共闘世代の「強者どもが夢のあと」、結局、時代は何も変わらなかった敗北感、焦燥感からか、店の雰囲気も演奏される楽曲も暗く、自嘲的、内向きなものが多かった。そんな中で、カントリーウェスタンだけは変わらず能天気にひたすら明かるかった。

 あの時代から時は流れて40年、団塊以上世代は金と時間を手にした。「さあ、あの良き青春時代をもう一度」と見渡してみると、有り余る金と時間を使う「遊び場」がないのだ。旅行、ゴルフ、テニス、山歩きといった定番にもそろそろ飽きてきたところに「歌声喫茶」。懐かしさもあって申し込みが殺到したのだろう。小金持ちの年寄りというのは案外寂しいものなのかもしれない。


つるべ落とし

2007年10月29日 | えぶりでいず3丁目の夕日
三丁目の夕日ではないが、2階のベランダから見ると、真っ赤な夕日にすじ雲がかかって平安絵巻のようだった。
無粋な電線がなければなおよかったのに。電気はないと困るが、こんなときには「なければよいのに」と人間は勝手なものだ。
秋の日はつるべ落とし。この後10分ほどで山の陰に日は沈んだ。

ロバのおじさん

2007年08月26日 | えぶりでいず3丁目の夕日

♪~ロバのおじさん、チンカラリン、チンカラリンロンやってくる~、ジャムパン、ロールパンできたて焼きたて いかがですぅ~、チョコレートパンに(も)アンパンに(も)~、なんでもありますチンカラリン

こんな歌を流しながら、ラーメン屋台のような馬車を馬が引いてやってくる。
10円玉をにぎりしめた子供達が、いっせいに辻々からかけよってくる。
ふかふかの蒸しパンを買って、ワイワイ言いながらその場で食べる。

「ロバのパン」なのにロバではなくデカイ馬だった。「なんやロバちゃうやん」(しかも後年は車になってしまった)。売ってるのは蒸しパンだから、「焼きたて」はおかしいやろ、「蒸したて」やろが、と突っ込みたくなるが、当時のガキどもにはそんなことはどうでも良かった。うまいおやつだった。周りは一時子供達の社交場になった。

調べたら今でもやっているそうだ。 「ビタミンパン連鎖店本部」(2005年で更新ストップ中
「ビタミンパンチェーン店本部」ではなく「...連鎖店本部」アハハ。ローソンだったらローソン連鎖店!いいなあ、いい。

がんばれロバのパン! 
  


あたり前田のクラッカー

2007年07月24日 | えぶりでいず3丁目の夕日
どっこい生きていた。「オレがこんなに強いのも、あたり前田のクラッカ~。」
これが分かる人は相当だ。
この間、近所のスーパーで見つけて懐かしい人に出会ったような感動を覚えた。10個も買ってしまった!
カッパエビセンじゃ無いけれど食べだしたら 止められない止まらない。