WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

物々交換

2009年10月29日 | ビンボー技

ログ作業場の一角で営業中の丹波くろまめ農家さん。


ネコとの物々交換で紫ずきん(くろまめの枝豆)をたくさんいただいた。

大粒でコクがあっておいしいです。


イリュージョンと失敗作

2009年10月25日 | おもしろ博物館

だまし絵展(兵庫県立美術館)を見に行ってきた。

 展覧会では“だまし絵”を“イリュージョン”とも呼んでいた。イリュージョンというと、最近ではプリンセス天功の脱出マジックのような大掛かりなマジックのことを指して言われることが多いが、もともとは幻想、幻覚、錯視(錯覚)と言ったような意味合いで、極めて人間的な高度な脳の働きがあって初めて可能になる現象だ。動物にも錯覚のようなものはあるかもしれないが、幻想に思いを寄せる、幻覚を見る、また錯覚を楽しむといったことはないだろう。

 初期の“だまし絵”として紹介されていたダブルイメージ、アナモルフォーズ、トロンブイユなどの手法はいわゆる錯覚、幻想といった意味での“だまし絵”とはちょっと違う気がした。
 ダブルイメージは、「要素の集合体でイメージを表現する手法」と言う意味で印象派の代表的画家スーラらの点描画と同様の発想で、現代でも様々な色のペットボトルキャップを並べて構成した絵や色合いの異なる米で描く田んぼアートなどに通ずるものがある。
 アナモルフォーズは道路に描かれた縦に長~い「止まれ」の文字も車から見るとちゃんとした文字に見えるという、あの原理だ。
アナモルフォーズの一例。
千円札を折って上から見ると...

なんか芥川龍之介みたいになってしまった野口英世さん。
下から見ると情けない。

 トロンブイユは絵の中に現実の物があるように描く手法だが、写真がなかった時代には面白かったこの手法も、写真のある現代では一瞬シャッターを押すだけで作れてしまう。

 ということで、本来的な意味での“だまし絵”と言えるものの登場は、本展でも紹介されているマグリット、ダリ、エッシャーに始まる20世紀を待たねばならないことになる。そして近代以降では立体造形による“だまし彫刻”とでもいうような試みも数多く発表されるようになっている。

 さて、エラそうなウンチクはこのくらいにして錯覚の一例。

じっと見ていると円が回転しているように見えてきませんか?クリックで拡大して見ていただくとよく分かるはず。

さらに錯覚の一例。

 何に見えますか?犬に見えましたか。一つ一つの黒い要素は不定形だけれどある配置で置かれると犬が見えてくる。
 人間は、見えたものに必ず自分が知っている何らかのイメージを当てはめて見ようとする性向がある。岩や雲に顔や動物のイメージを見たりすることは誰でも経験があるはず。とりわけ人間は“顔”をイメージする傾向が強いらしく、多々ある怪談話もそうした人間独特の性向によるものだろう。

 と、長々と書いてきたが、今回の失敗作。

ある動物の全身像に挑戦していろいろいじっているうちになにやらわけの分からない動物になってしまった。何に見えますか?
虎に見えたらあなたはちゃんと前頭葉が働いて正常に錯覚を起こしている“人間”です。おめでとう。
という、言い訳をするための長い、長~い前フリでした。


第3回安曇野チェンソーカービングショー

2009年10月19日 | チェンソーカービング

 彫刻家でチェンソーカービング塾を主宰されている、通称塾長、伴さんが中心となって「第3回安曇野チェンソーカービングショー」が長野県安曇野市で17-18日開催された。このイベントは、プロ級の方々から私のような始めて間もないシロートまで一緒になって好きなように彫らせてもらえて勉強にもなり、材の調達や場所の確保もままならない都市部の初心者にとってはありがたーいイベントだ。(「好きなように」と言っても、もちろん最小限の常識的なルールはある)

私のつたない作品。

左からカップ(画像が切れて端しか見えていません)、ハロウィンカボチャ、ウサチャン・ボルト(ウサイン・ボルト)、トラ、ある凄腕カーバーさん像(作品の凄さもさることながら彫ってる姿自体が絵になるお方。)、大口クマさん。

また、この機会にマツタケ山再生活動(まつたけ十字軍)のCMもさせていただいた。

丸太ベンチに並ぶのは間伐ヒノキで作ったマツタケ。2山お買い上げいただけた。
友好団体である松本市「本郷財産区」の飯沼さんはじめ、今やマツタケ生産量日本一となった長野県の方々ともいろいろお話をさせていただくことが出来た。今年は長野も京都同様不作のようだ。

勝手に師匠と呼ばせていただいている宮澤五郎さんの作品。

一般公募の彫刻展でも数多く入選、入賞をされている。
2年前の第1回カービングショーは講習会最終日もかねていて、そのときご指導いただいて以来、勝手に師匠と呼ばせていただいている。
 五郎さんからは技術的なこともさることながら「人と同じようなモノは作らない」という、当たり前で難しい作品作り、アートの心得とでも言うべきものを学んだ。もっとも、初心者はモノマネせざるをえないところもあるのだけれど、いつかは自分のワールドを作りあげたいものだ。
 ただ、パロディっぽいもの、どこかユーモアというかお笑い要素を好む傾向は師匠ゆずりかも。五郎さんはそんなつもりではないのかもしれませんが。

<印象に残った作品>
もう次元が違うと言うか、雲の上のあっちの世界へ行ってしまわれた山形の凄腕カーバーさんの作品。

宮城の音やんさんの作品。

今年は楽天といい、東北が元気だ。

豪華参加賞。
スタッフのアイバーカーさんがスポンサーを募って、夜なべで作成いただいた公式ユニフォームと缶バッジ。

昼の給食風景。


久しぶりの・・・チェック

2009年10月15日 | さおりチェック!(旧楠井チェックw)からのー、沙織チェック

ありがたくもリクエストをいただいたので。

この目線の先に・・・、いてみたいもんですなあ。
最近の楠井さんは一年前よりぐっと大人のおんなっぽくなられました。
(♪時が行けば、幼い君も大人になると気づかないまま、今ぁ春が来て、君はキレイになった・・・、てか
キャスターぶりも板についてきて、洋風クリステルのあとがまに和風まどかなんていいと思いますが、局違いでダメか。

和風まどかさんはけっこうデカイ。いろんな意味で。

洋風
和風
あなたのお好みは?

 


葬儀場問題 その後

2009年10月15日 | 今日の出来事

 今日、例の葬儀場前を通ったら、ついに完成して工事中の囲いが取り除かれてその全貌が明らかになっていた。と、大そうに言うほどの建物でもなく、(姑息な行政査察のがれの床面積99㎡)、こんな小さな建物で葬儀屋が成り立つのだろうかと、他人事ながら心配になるようなシロモノだった。

画面右の建物が姿を現した葬儀場。左の紅白幕とのぼりは反対住民の「団結小屋?」。葬儀場反対なので紅白幕? う~ん、センスがいいのか悪いのか??

「団結小屋(テント)」側から見る。

 周辺の各戸にも手当たり次第にのぼりやら、「断固反対!」手書きポスターやら、黄色いハンカチやら(この“踏み絵”的黄色いハンカチ縛りは最近の流行)。
いったいどっちが町の美観を壊しているのか、考えたことはないのだろうか?


不作

2009年10月15日 | まつたけ

 今日の京都新聞によると、丹波まつたけが大不作。9月の残暑の影響とみられているようだ。
 昨年、マツタケ生産量が全国1位であった長野県の方からも今年は不作とのメールをいただいた。

 まつたけ十字軍で整備していて、昨年40本近く収穫のあった山域。今日、様子を見に行ってみたがマツタケの気配もなかった。もっとも昨年も発生は10月下旬だったので、まだ早かったということもあるが。
 現地までの道中、先週の台風の影響で枯れ松などの風倒木があちこちにあり、山道や林内も落枝が散乱して山はかなり荒れており、道をふさいでいる倒木を除いたりしながら進まねばならなかった。


 しかし、昨年整備した領域は枯損風倒木はあるものの落枝落葉は少なく未整備の山域に比べて断然きれいであった。やはり整備してあると自然災害にも強いということが言えそうだ。

 この山域は山主の方にお返ししなければならなくなったのであるが、われわれが撤退して以降、整備が継続された形跡はなかった。このままではまた荒れ果てていくのかと思うと残念で、少々暗澹たる気持ちにならざるを得なかった。


公職選挙法第138条の3 (選挙ネタ2)

2009年10月13日 | どうでもいいことだけど...

(人気投票の公表の禁止)
 何人も、選挙に関し、公職に就くべき者(衆議院比例代表選出議員の選挙にあつては政党その他の政治団体に係る公職に就くべき者又はその数、参議院比例代表選出議員の選挙にあつては政党その他の政治団体に係る公職に就くべき者又はその数若しくは公職に就くべき順位)を予想する人気投票の経過又は結果を公表してはならない。

マスコミの「投票前支持率調査」、「出口調査」ってこれに該当しないのかしらん??


滑稽な形式民主主義

2009年10月12日 | このごろ思うこと

 先だっての総選挙でもそうだったが、選挙のたびに目に付く「個人演説会」告知ポスター。大抵が(予定)候補者と他に適当な弁士が一緒に掲載されているのにお気づきだろうか。

 公選法で、任期満了6ヶ月以内は“選挙活動”が禁止になる。しかし“政治活動”なら憲法で保障されている思想信条の自由あたるので、「演説会告知」という“政治活動”というわけだ。いわゆる“抜け道”。法律で何もかもは縛れない。聡い者が“抜け道”を作り出すのは世の常だ。
 しかし、「選挙活動」か「政治活動」かの線引きは難しい。いくら「演説会告知」だと言っても、候補者の顔と名前がでかでかと、しかも6ヶ月も先の演説会の告知ということで選挙公示直前まで掲示され続けるというのが、選挙目的の「選挙活動」だというのは誰が見たって明らかだ。それだけでも滑稽でバカバカしいのに、(予定)候補者の写真や名前表示と同じくらいの扱いで別の適当な弁士が載せられていれば「選挙活動」とは言いがたいなどという、苦し紛れな「法解釈」もあるらしい。

 衆議院では比例区、参議院では全国区というのがある。民意のより正確な反映、少数意見の尊重という意味では意義ある制度だ。
 小選挙区、地方区では「公平性の担保」ということで配布できるビラ枚数に制限があり、選管交付の証紙を貼らないと配布できないのは周知のとおり。何万枚ものビラにせっせと証紙を貼る光景、それだけでも大変で滑稽ではあるが、まあ、やってやれないことはない。

 では比例区、全国区はどうか。当然、数万枚程度のビラでは対象有権者に対して少なすぎる。かといって何十万、何百万枚の証紙を貼るというのも馬鹿げているということには、さすがに政治家もお役人も思い至ったようで別の方法を編み出した。その方法というのがまたウケる。
 総選挙のとき、ある政党が街頭で選管認可の文言入りの“のぼり”を立てて比例区向けマニフェストを各戸配布していた。
 聞くところによると、証紙の代わりに配布許可者を示す“のぼり”を交付し、その“のぼり”を持っているもの、およびその協力者だけがビラを配布できるということらしい。しかも配布要員は必ず“のぼり”が目に付く範囲でしか配ってはいけないというのだ。こんなもの、違反したところで取り締まりようもないと思うのだが。

 なんという形式民主主義。「金のかからない選挙」が口実の“べからず集”=公職選挙法。まるで「お笑いのネタ帳」だ。
 ダムに道路に、二束三文で叩き売られたハコ物に、金融バクチで大損こいたヤツらへの税金投入・・・、何兆円ものムダ遣いをし、規制緩和で雇用、生活をグチャグチャにしておきながら、ビラやポスター、訪問、街頭演説程度を滑稽なほど規制してどこに公平性があるというのだろうか。

 国民は、バイアスのかかったテレビ、新聞報道、非常に部分的でしかない選挙公報、内輪で盛り上がっているだけの個人演説会、我田引水・自画自賛で参考にもならない政策ビラで表面的な政策比較をするしかない。今、世をあげて民主党フィーバーだけれど、民主党ってどうよ。所詮、「政党助成金」に寄りかかった「国営政党」。メンバーの主力は自民党崩れではないか。

 昔は「立会演説会」という、少しは生身の政見比較ができる機会もあった。最近、青年会議所など民間団体主導で政党、候補者を一堂に会した「討論会」が企画されている。耳ざわりの良いことしか言わないに決まっている政党、候補者の言い分を、候補者同士や聴衆有権者もふくめた相互批判・討論にさらして見極めることのできるこうした機会をこそもっと増やすべきだ。そうすれば、勝手な自己主張のみで愚にもつかないビラやポスター、連呼など選挙でムダ金使う者など自然といなくなる。


他流試合?

2009年10月12日 | チェンソーカービング

“チェンソーアート”は一般木彫界ではどの程度認知されているのか、知りたくてとある木彫公募展に出品してみた。日頃取り組んでいる、マツタケ山再生をメインテーマとした里山再生整備活動への想いと、ヒノキ、ソヨゴなど間伐された木たちも少しでも活かせる道を探ってやりたいという思いをこめている。しかし表現としてはちょっと直載すぎたかも。

 この公募展は「芸術のための芸術」に異を唱え、民衆の暮らしに根ざしたアートをというコンセプトに共感したからである。結果は残念(当然?)ながら選外。今の私の技量からすれば受け入れざるを得ない結果ではある。
 ただ、この公募展は作品の大きさに制限があり、細かい造作が難しい(ほとんど不可能?)チェンソーだけでの造形には限界があるかもしれない。上の作品、左端の“ツボミ”マツタケは長さ約5cm程度。
展示風景。

 彫刻に限らず造形芸術の世界では道具はそれほど重要な要素ではない。当たり前のことかもしれないが、重要なのは結果としての作品の質だ。入賞作品を見て、あらためてそのことを痛感させられた。
下は130余点の応募作品の中で私がもっとも感銘を受けた作品。高さ約50cmくらい。この大きさでこの顔の表情をチェンソーで出すとしたら相当に難しいだろう。


 一般的な彫刻展で、チェンソーだけで製作した作品で評価を得ている作家もおられるが、私の知る限りでは2、3の方々のみでまだまだ一般的に“彫刻”として認知されているとは言いがたい。しかし、非常に難しいことではあるが、だからこそチェンソー彫刻にこだわって挑戦を続けてみたいとも思う。