WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

自然のアートと表現の自由

2019年08月30日 | アート

これは何だと思いますか?

ナスカの地上絵?、どこかの天体表面の写真?、墨で描いた絵?

実はこれ、木の虫食い跡の拓本なんです。”魚拓”ならぬ”木拓”。なんかアーティスティックですね。

実体はこれ。
伐採後、しばらく放置されていた丸太の皮を剥くと、虫食いの跡が現れます。

その一部を拡大してみると、

中央には見事な放射状の線画が描かれています。また、周りにはもう少し太めの川のような虫食い跡がくねくねと四方八方に伸びています。
これらの線描は、大小異なる2種類の虫たちが描いたものと推測されます。

次の画像は、上の写真の虫食い跡がより鮮明に分かるように画像処理ソフトで加工したもの。
まさに”ナスカの地上絵”のような線画と、川か道路網のような造形がよりくっきり浮かび上がって、まさにアート作品のようです。

もう一例、
こちら元の写真。

画像処理ソフトで加工すると、

これらの虫たちの造形を見て何を感じられますか?アート的なものを感じませんか。
でも虫たちはもちろん、アート作品を作ろうとしたわけではありません。単に食欲のままに喰いすすんだ結果です。しかし、人間という生き物は、脳の進化に伴いそこにアーティスティックなものを感じる「感性」を獲得したわけです。ここに、脳がある物体や造形、自然現象を”アート”と認識するメカニズムの原点、ヒントが隠されているような気がします。上の虫たちの造形だけを純粋に見て、とりあえず思いつくのは、私たちは「一定の規則性・法則性」あるいは「特異なカタチ」にアート的な感覚を抱くようです。

 

さて、ここで「表現の自由」問題を考えてみましょう。
虫たちが作るアーティスティックではあるけれど無目的なその作品に、作者の政治的な意思、あるいは鑑賞者の歴史観が加わるとどうなるでしょうか?
時代は1930年代~1940年代、”木”が韓国、中国、旧満州で、虫たちは日本(軍)で、作者は「日本の不当な侵略、女性の性奴隷化(慰安婦)や民衆虐殺」への抗議の意味を込めたのだと主張したらどうなるか。とたんに「慰安婦や虐殺などでっち上げだ」と考えている鑑賞者にとっては実に不愉快な「作品」に転化してしまうでしょう。逆に、「慰安婦や虐殺は事実」と考えている鑑賞者にとっては強い「共感」を抱くのではないでしょうか。


要するに何が言いたいかというと、「単なるモノである作品自体には意思も主張もないのであり、あるのは単純に鑑賞者(=人間のみ)のアーティスティックな感性を刺激するか否かだけで、作品から受け取られる意味はむしろ鑑賞者の思想、歴史観次第だ」ということです。
言い換えれば「作品による表現の自由」とはまさに「作品からの受け取り方の自由」でもある、ということです。その意味で言うと「表現の不自由展」問題は、「慰安婦は無かったと主張する」作品や「天皇は国体の長である」と主張する作品の展示を拒んでいたわけではないという意味において、「表現の自由」は一応保障されていた、と言えます。むしろ「受け取り方の自由」が保障されていたかどうかが問題であって、「『少女像』を見ると不愉快だから展示するな、一方的な展示に公費を使うな」という主張は、自分たちの「受け取り方」以外の「受け取り方」は許さないということで、上の「虫たちアート」の例で言えば、虫たちに「お前の作品は不愉快だからそんな喰い方はするな」と言っているようなもの、虚しいだけです。むしろそうした言い分は戦時思想統制的なまことに危険な考え方と言わざるを得ません。戦時中の思想統制はまさにこの「表現の自由」とともに「受け取り方の自由」もが大きく抑圧されていた時代でした。


ナゾの日本少女歌劇団

2019年08月25日 | おもしろ博物館

奈良県大和郡山市、DMG MORI やまと郡山城ホールで開催中(9月1日まで)の「日本少女歌劇座展」。


古本市で見つけられた1枚の案内絵葉書がきっかけで発掘されたナゾの「少女歌劇団」。今でいう「AKB48」みたいなもんかな?
こういう庶民の埋もれた文化史には大変興味をそそられます。

会場の「DMG MORI やまと郡山城ホール」。予想を裏切る立派な会館だった。コンサートホールや図書館も併設。

向かいには郡山城跡。


「日本少女歌劇団」発掘を伝える「宮崎日日新聞」の記事。


歌劇団の見つかっている最古の講演記録は1923年(大正12年)、大津市大黒座。その後、近鉄石切駅付近にあった「日下温泉」を拠点としたが温泉の経営不振で奈良県大和郡山へ拠点を移す。


1936年(昭和11年)、宮崎県に自前の劇場「孔雀劇場」(次の画像、下中央の写真)
を確保し拠点を移す。

「♪うちら陽気なかしまし娘~」?。

発掘者の鵜飼正樹京都文教大学教授インタヴュー。


初期のトップスターは山路妙子(活動年代1923-1935ころ)
当時すでに宝塚歌劇、松竹歌劇もあった。「日本少女歌劇座」は先発が活躍する大都市圏を避けて地方でおもに公演していたという。ま、平たく言えば「どさ回り」。

山路妙子さん。失礼ながら、宝塚と比べるとやはりお顔も芸名?もイマイチあか抜けない。

こんな絵ハガキで集客していた。中世ヨーロッパの宗教画みたい。

ラインダンス絵葉書。なんか微笑ましい。


日本だけでなく、当時日本が進出(侵略?)していたアジア方面にも遠出していた。


このころはまだ、「レビュー」だの「PROGRAM」だの後の敵性語も使い、演目も明るい。

歌舞伎みたいな演目もやっていた。



専用貸し切り列車で全国行脚。なかなかの人気ぶりだったらしい。


北は北海道から南は九州まで全国行脚し公演。赤点が興行地。


太平洋戦争が厳しくなってきたころ。
桃太郎が子分どもを連れて米英をやっつけるというお話。犬、サル、キジは被り物。もはや「少女歌劇」ではないような…。
「レヴュー」という敵性語が「大舞踊劇」に置き換えられている。


「聖戦二年 大舞踊劇銃後の国民○○」「聞けよ米英!!亜細亜十億の雄叫び○○」の文字が躍る。
「負け犬の遠吠え」ってか。


北朝鮮駐留部隊を慰問。


敗戦。孔雀劇場は爆撃で焼失。


そして戦後の台本。その豹変ぶりにご注目!


台本、「歌劇」の歌の一部。
「 ♪俺達は朗らかな復員者。何が何だかわからずにオエライ方の命令で戦争に行ったけど...。
.......
死んでいった戦友にゃ済まないことじゃがこの通りピンピン達者で生きて来た。
戦争なんかつまらない。勝っても負けてもつまらない。ほんとにほんとにつまらない。」


1950年(昭和25年)、OSKトップスター秋月恵美子(前列中央サインの女性)と。やっぱりOSKはオーラが違う。芸名もあか抜けてるわ。
OSKと言えば、今は無き「あやめ池遊園地」でも公演していたそうな。


創立者にして団長の島幹雄。AKB、SKE、NGTその他の秋元康みたいなお方、らしいが結構謎多き人物。政財界、興行界に顔が利いて、地方のヤクザが絡んできても追い返すほどのお方だったらしい。


機関紙。発見されている最新のものは1952年版。これ以降は見つかった記録も少なく、1957年を最後に公演記録も途絶えているらしい。


カエル展

2019年08月25日 | アート

木津川市でビエンナーレとして開催されている「木津川アート」。
次回は2020年秋の予定ですが、プレイベントとして拠点の「キチキチ」で開かれている「カエル展」を観てきました。

なぜカエルなのか?
昨年まで10年間、プロデューサーとして大会運営を引っ張ってこられた佐藤啓子さんが昨年、逝去されたので追悼も兼ねて佐藤さんのご趣味だったカエルグッズ収集にちなんでの”原点にかえる”意味も込めての開催。

カエルの馬跳び?カエルの指輪です。


ダイオウグソクムシ?カエルには見えんなあ。

一目見て「放射能マーク」!と思いました。

作者の解説(次の画像)を読むといろいろの見方や推測がされていて興味深いです。アート作品とは作者の「表現」の手段であるとともに、「鑑賞者」の頭の中を映し出す「鏡」でもあるのだなと改めて思いました。

愛知トリエンナーレの「表現の不自由展 その後」中止騒動。がこんなところにも反映。
もしこの作品が、広島・長崎や福島で展示されていたら、鑑賞者は何を感じどんな声が上がるのだろうか。


「鳥獣戯画」あたりから始まる日本のマンガの伝統的カエルさん。


作品が置かれたガラステーブルに窓の景色が映りこんで、まるで空中に浮いているような不思議なVR空間が出来上がっていました。


「カエルを被って周りの景色を見てください」とあるので被ってみた。

次の動画のような景色が見れました。

ちょっと分かりずらいけど、確かに天井と床が逆転している。そのわけは?(次の画像に説明)

ピンホールカメラ.。
ところであなたは、鏡に映る像は「左右逆になるけれど、上下は逆にならないのはなぜか?」子供たちにも分かるように説明できますか?

これも光のいたずら。作品の額のガラスに部屋の窓が写りこんでカエルの上を動いている。

今回の出展者、特に女性作家さん
はピンクのカエルがお好みのよう。


本物みたい!近づいてよくよく見ると「刺繍?」でした。スゲー!

カエルカレー。カエル肉は入っていません。


夏休み

2019年08月17日 | 今日の出来事

お盆休みの3日間、子守りです。

昨日は比叡山夢見が丘へ。標高600mくらいあり、風も良く通るので下界よりはずいぶん涼しく過ごせました。

そして今日は、工作デー。
お兄ちゃんは夏休みの宿題工作。だるま落とし作りました。

妹は木にお絵かき。


映画「ひろしま」

2019年08月14日 | 映画(西部劇など)

アメリカでもそこそこの反響を呼んでいるらしい?、つい先日NHK ETV特集でも取り上げられた話題の映画「ひろしま」。Amazonでもデジタルリマスター版は在庫切れとなっています。ちょうど今、出町枡形商店街に2017年に開館した独立系映画館「出町座」で上映されているので観に行ってきました(~8/23まで)。

結論から言えば、私がひねくれ者なのか正直、世評ほどの感動は持てませんでした。

まずもって言葉が標準語で”広島感が感じられない”、子役のセリフに棒読み感が抜けきらない、のはまあ、当時の演技レベルと映画環境としては致し方ないところか。
時代考証的にも「プール」など当時は禁止されていたはずの敵性語がセリフに使われていたり、日本赤十字病院に”Japanese Red Cross Hospital”の看板が掲げられているなどの凡ミスが目立つ。被爆8年後の1953年、まだ混迷の続いていたであろう時期に制作されたことを割り引いてもちょっと油断しすぎ。

原爆資料館の展示や米軍調査団の撮影した映像、マンガ「はだしのゲン」では、黒焦げ遺体や皮膚が剥けて垂れ下がったままさ迷い歩く人々などが描写されている。映画の被爆者は一様にソバージュ状になった髪に衣服が破れて泥やほこりで汚れた程度の体でゾンビ風にさ迷い歩くワンパターンの演技の割には、目にも顔にも生気があって原爆の悲惨さがいまいち伝わってこない。
スプラッター映画ではないのだから「これでもか」とグロいシーンを見せるのは控えざるを得ないのかもしれないが、原爆資料館の写真や米軍調査団の撮影した生々しい映像を見てしまった身には、いまいちその悲惨さ、非人間性が伝わってこない。

先生役の月岡夢路さん、岡田英二さん、若き山田五十鈴さんなど豪華俳優陣がそろっているが、このような映画に美男美女はどうも真実味にかけて違和感がある。むしろ美男美女ではない(失礼)若き日の花沢徳衛さん、加藤嘉さんらの方がリアリティが感じられた。

では、冷静に見てそれほど完成度は高くない「ひろしま」の公開に、当時の政府がなぜ圧力をかけたのだろうか。当時は原爆の記憶がまだ新しく、皇国戦争の化けの皮が剥がれた反動で、特にこの映画を製作した日教組などの労働組合を中心に民主化・反米運動が盛り上がっていた。まだ「サンフランシスコ講和条約」締結の1年後という難しい時期にあっては、天皇制維持と自分たちの保身のためにはアメリカを刺激したくなかった”忖度”が、当時の保守勢力に働いたことは想像に難くない。果たして、こうした”忖度”は令和の今に至るまで彼らの中に連綿とある。

アメリカでは今もなお、広島、長崎への原爆投下について問われると「原爆のおかげで戦争が終結した」と答える人が8割くらいだという。そうしたアメリカ人たちに今一歩踏み込んで人体実験として原爆を投下した非人間的ホロコーストの罪に目を向けさせるためには、アメリカでの公開に意味はあるかもしれない。

出町座は、シアターが2つ(2FとBF)。「ひろしま」は16日までは2F、17日~23日まではBFで、9:30-11:20上映。
写真は2F。小学校の教室ほどの広さに42席。BFもそんなもん。スクリーンもハンディタイプのような大きさ。

券売機でチケットを買い、写真左の受付で希望の席を申告し半券に記入してもらい入場するシステム。
入口ホールにはCafeもある。壁の周りには映画関係を中心にたくさんの本やパンフレットが並ぶ。Cafeで本を読むのも良し。

出町枡形商店街。だいぶ店舗も入れ替わり昔の面影はない。


懐かしいお総菜屋さんはまだあった。看板のチープでシンプルな天狗がなんとも愛らしい。


「下鴨納涼古本まつり」

2019年08月12日 | 面白かった本

下鴨神社で開催中の、毎年恒例「下鴨納涼古本まつり」に行ってきました。けっこうな人出。

絵本の読み聞かせ会。
 猛暑の中、子供たちが一心に見入っていて、なかなか大盛況でした。 テレビやゲームに子守りさせるのでなく、親がちゃんと子供に向き合えるゆとりのある世の中になってほしいものです。

 

 

 

8/17-9/2に「下鴨神社 糺の森の光の祭」というライトアップイベントが行われるらしく、準備が進められていました。デッカイ、恐竜のタマゴみたいな行燈がたくさん並べられていて、昨年の「木津川アート」を思い出しました。
ケチをつけるつもりはないけど、なんか陳腐感漂うイベントだなあ。あ、しっかりケチつけてるやんか^^。ジジイの特質ですな。

 

 

猛暑の中、探し回って面白そうなのを4冊ゲットしました。

 

「五日市憲法草案」
「憲法」に関わる事件、話題が多いこの頃ですが、軍部と天皇独裁の明治時代、国民主権を基本にした、現憲法につながる憲法草案を起草した民間人たちの奮闘を数々の記録や証言で追ったドキュメンタリー。
なにより勇気あることに、美智子上皇后がその価値を大いに評価する感想を述べられたという。現代の皇室は、”ネトウヨ”なんかより、実はよほどまともなのかもしれない。ただし、それを口にする「表現の自由」を、彼らは抑圧制限されているのだが。

「カエル」
カエルにこだわって、その種類や生態を子供にも分かりやすく解説した素晴らしい本だと思います。多種類のカエルのカラー写真は大いに興味をそそられます。カエルの病気診断、治療法解説まであり、著者のカエル愛がひしひしと伝わってくる。

「回転寿司おもしろ大百科」
誰もがよく知っている回転寿司をテーマに、厨房で働く人たちや業界の歴史、生産業者、加工業者、魚の種類、用語や魚の漢字にいたるまで幅広く、ふんだんな写真と図解で面白く楽しく読ませる。子供向けだが大人が読んでも十分惹きこまれるし勉強にもなる。

「十二世紀のアニメーション」
アニメの巨匠のひとり、あの「風の谷のナウシカ」他、数々の名作を生みだした高畑勲監督の本。時節柄すぐ目に留まった。
なぜ日本でこんなにマンガ、アニメ文化が隆盛になったのか?を、12世紀ころの日本独自の絵巻物文化から考察している。
筆による繊細な線描表現と、絵巻物形式による物語描写は日本独特の発明であり、後世の北斎漫画や浮世絵へ、さらにはマンガ、アニメへと発展、継承されていく。
西洋にもデッサンや近世以降のカトゥーンなど線描表現はあるが、あくまで絵の具などによる描画芸術の下絵や俗っぽい表現手段として、アートの主流とはなりえなかった。
こんな価値ある書物が無造作に積み上げられている、古本一の面目躍如というか、まさに掘り出し物を掘り当てた気持ちで嬉しくなった。

 


保津川花火大会

2019年08月11日 | 観光

亀岡保津川花火大会
このところ花火大会づいておりまして😅

とにかくものすごい人。事前に「車では来るな!」とのアナウンスがされていましたが、「早めに行って駅前のイオン駐車場に停めれば何とかなるだろう」と午後2時ころに行きましたが甘かった!すでにイオンまで長蛇の列。3時ころまで待ってこりゃダメだとあきらめて、八木駅まで行き駅前駐車場に車を置いて亀岡までJRで逆戻り(パーク&ライド)。

人いきれで暑さは倍増。花火自体は工夫を凝らした変形花火が多く、近くてドーンという音も体に響くほどで楽しめましたが、規模的にはやはりびわ湖や宇治川(2013年を最後に廃止)、淀川よりは劣るかな。

亀岡に入るには、JR、国道9号、京都縦貫道くらいしか無くアクセス事情が悪くて道路は大渋滞、唯一の公共交通手段JRもすし詰め間違いなし。
亀岡駅への帰路、大渋滞、数年前の明石の事故を思い出してしまった。駅では改札入場制限が行われていた。

亀岡駅のホーム。向こう側は京都駅方面。他Ⓙくさんの人でごったがえしていた。こちら側は園部方面でまだ余裕。

この大会、正直、あまりお勧めではありません。特に子供連れは。


表現の不自由展

2019年08月07日 | アート

愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」が中止に追い込まれたという。 補助金ヒモ付き「芸術」の限界、京アニ事件に悪乗り便乗して脅迫電話をかける卑怯な匿名愉快犯、騒ぎに便乗する瞬間湯沸かし器的ネット民の怖さ、それに乗っかるヘイト首長や政府、日本の現状をいろいろと考えさせられる事件だった。

https://www.asahi.com/articles/ASM833DC1M83OIPE003.html?fbclid=IwAR05aX2ex6uMaZsv4QO_ckyl6buIMfDr29cDCx_OsAWhfKQI7dya_UjpowE

「平和の少女像」展示などに反発する人たちは、作品自体に不快感を覚えているのではないと思う。作者と作者が伝えたかったメッセージに反発している。残念ながら、反発者ご本人はそのことに気づいていない。少女像作者が韓国人で、慰安問題抗議の象徴として掲げられたから反発しているのだ。もし、この像の作者が日本人で、単に民族服の少女の魅力を表現したかっただけだっとしたら、どうだっただろう?同じ像であってもこれほどの反発は起きなかったに違いない。

「「表現の自由」は何をやってもいいというものではない」と反発する向きもある。
確かに血生臭い表現や破壊的なものなど、作品によっては、だれが見てもグロテスクで気持ち悪かったり、いやな気分になるものもある。
でも、そんな悪意を感じさせる表現でなければ、文字で伝える文学や歌唱で伝える音楽ほど、造形作品でものの見方、考え方を伝えるのは容易ではない。生半可な表現では、伝わるメッセージはむしろ観る側の立場、思想やイデオロギーに左右されると思われる。慰安婦像に反発する人たちにとって、あの像はまさに自分自身(とそのイデオロギー)を映し出している「鏡」なのだ。
だからこそ逆に、ゲルニカなどのような、観る者の思想信条にかかわらず作家自身のメッセージを伝えうる、強烈な意思、パワーのある造形作品は少ないし、凄いと思う。

作者が何らかの思いを持って製作したとしても、ただの物体である作品そのものには意思も意図もない。造形作品を通して思いを伝えることができたとすればそれこそ作者の表現の力量によるもので、それはかなり難しい、相当の力量を必要とする。だから大半の作品には「作品解説」を付けることになる。
本来、造形芸術は、解説など付与せずとも作者の思いを伝えられてこそ本物なのではないか。 正直言って私には「平和の少女像(慰安婦像?)」を慰安婦問題への先入観抜きに観て、カワイイとか造形的に優れているとか、いわゆる「芸術的」な印象は全く感じない。ただのマネキン人形風の物体にしか見えない。まあ、それは私の「芸術を見る目?」の問題なのだと言われればそれまでだが。私には「平和の少女像」の横に置かれた無人のイスの意味するところの方がむしろ気になった。

作者の思いを受け止められる鑑賞者もいれば、異なる受け取り方をする鑑賞者もいる、そのせめぎあいの中でこそ、造形芸術という表現形態が成立・完遂するのではないだろうか。そういう意味で、鑑賞者がどのような立ち位置であっても、まずは無機的立場から作品を鑑賞することから始めるべきであり、その後、それぞれが感じたこと、受け取ったことで意見を交わすなりすればよい。それこそが「表現の自由」というものだ。

表現の自由に対する制限として「人を不愉快にするものを展示すべきではない」と主張する向きもある。「アート」だと主張すれば何でもありではないのは当然のことだ。適切な例ではないが、かつての少年Aのような「芸術家」が動物や人間の切断された生身の頭部を「芸術」と称して展示したらどうだろう、ほぼ全員が不快感を感じるに決まっている。それでも中にはごく少数、それも「芸術」だと言い張る変人もいるかもしれないが。

だからこそ物体としての作品を鑑賞する際には、先入観や芸術(アート)というものの自己基準はまず置いておいて、その作品が物体として与える印象がまず「不快」なものかどうかで判断すべきだ。ただのマネキン的少女像自体に、私は全く不快感を感じない。そしてアートの自己基準に照らしてみてもたいして芸術的とも思わない。繰り返すがただのつまらないマネキンにしか見えないのだ。
ただし、仮に作者がこの作品に「戦時に朝鮮人を凌辱した日本人は皆殺しにしろ」というメッセージをこめていたとして、そのことを知ったうえで気持ちよく鑑賞できるかと言えば、それは”否”だ。議論すべきは「そのメッセージに正当性があるかどうか」であり、物体である作品自体に万人に不快感を催させるグロテスク、あるいはバイオレンスなものが無ければ圧力排除すべきではない。

公的税金の使い方についてもよく言われているが、もし誰が見ても「国益を損なうようなイベント」に税金が支出されたのなら、責められるべきは作家ではなく、そのようなイベントに税金を出した国、自治体であり、その責任者(首長、担当閣僚)ではないか。
賛否両論もしくは異論のある問題については、両論、異論を等しく表明する場を保障することは民主主義国家としての公的機関の責務であり、そのために税金が使われることは何ら問題はない。

だから問われるべきは、もし過去に「慰安婦などというものはでっち上げである」「天皇制は日本国存在の礎である」「自国を守るためには自衛隊を憲法に正当に明記、位置付けるべきである」というメッセージのアート作品が、偏った主張だという判定で展示から排除されたケースがあったにもかかわらず、今回の「表現の不自由展」ではそれらの作品はあえて採用せず、反対の主張の作品のみ集めていたのであれば、これは公金支出イベントとしては偏っていると非難されるべきだ。しかしそのような様子はない。もしそのような例があるのなら、「私は過去に、慰安婦が虚偽であることを訴える作品の展示を拒まれたのに、「表現の不自由展」で採用されていないのは不当だ」という作家は名乗り出て抗議すべきだ。しかしそのような動きはない。ということは「表現の不自由展」の公平性は十分担保されており、税金云々は筋違いの非難だ。

いったい今回の事例ではそもそも何が問題なのか。
諸論かまびすしい中で、最も的を射ているのではないかと思われた論評は次の論である。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190807-00057247-jbpressz-soci&fbclid=IwAR3j7rtMM03Ay0-QGufxiU9T4HH9MlaAyEzkC7Ib-lrGRA0TrRjEbYLaFZs

ただ、「アート・芸術はノンポリであるべき」という論点だけは全面的には賛同しかねる。 非政治的純粋芸術?的なものももちろんあるとは思う。だが、現実は残念ながら油断すると気づかないうちにしばしば政治的に利用しようとする者たちの侵襲にさらされることがあり、論者の言うようにその道のプロが慎重さと周到さをもってプロデュースすべきである、という点はその通りだが、 また一方で、アートを政治的メッセージの表現手段とする自由も当然承認されるべきだと思うから。

 

 

 

 

 


伏見フェスティバル

2019年08月04日 | 手づくり市

毎月第一日曜日は小町手づくり市の日なのですが、今日(8月4日)は夏休み。まあ、「危険な暑さ」つづきなのでその方が結果ありがたかったりするのですが。 で、手づくり市仲間の「こだわりパン ARIKA」さんが出展されている「伏見フェスティバル」に行ってきました。


目当ては2つ。

1つは、ここ2ヶ月ほど食べてなくてそろそろ禁断症状が出てきたARIKAさんのメランジェを買いたくて。このパンで「隣の人間国宝さん」に認定!?

・・・

2つ目は、今、世間を騒がせている吉本所属の漫才コンビ「かつみ・さゆり」さん。期待通り、闇営業ネタで笑わせてくれました。

それにしても、ボヨヨ~ンのさゆりさん、お美しい。なんともう、50歳なんだって!!音大中退(これもネタ)だけあって、ピアノもお上手ですが、すばらしいソプラノの歌声も聴かせていただきました。

予想外だったのは、末娘もお世話になっていた明徳高校ダンス部の演技。なかなかキレッキレでびっくりしました。