WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

“高級”歌声喫茶に500人!?

2008年01月31日 | えぶりでいず3丁目の夕日

 京都の有名ホテルが、団塊世代をターゲットに歌声喫茶を企画・募集したところ、定員300人を大幅にオーバーする申し込みがあったそうな。で、急遽第2部(200名)も追加することになったんだとか。いったい、ホテルの“何とかの間”でやる、会費3,500円もする「歌声喫茶?」って歌声喫茶なんだろうか?。そんなのになんでまた年寄りが500人以上も殺到するのか?よく分からない。古き良き時代へのノスタルジー?。

 歌声喫茶世代って、団塊さんの上限を含むもうちょっと上の世代だろう。私の年代は、団塊世代に入れられたり入れられなかったりする下限中途半端世代である。若い頃、歌声喫茶はすでにピークを過ぎていて行ったこともない。私達にとって歌声喫茶に当たるものはライブハウスであった。ブルースやジャズ、アングラ、フォーク、カントリーウェスタンなどのライブハウスがあちこちにできていてよく行ったものだ。特に京都には多かったように思う。全共闘世代の「強者どもが夢のあと」、結局、時代は何も変わらなかった敗北感、焦燥感からか、店の雰囲気も演奏される楽曲も暗く、自嘲的、内向きなものが多かった。そんな中で、カントリーウェスタンだけは変わらず能天気にひたすら明かるかった。

 あの時代から時は流れて40年、団塊以上世代は金と時間を手にした。「さあ、あの良き青春時代をもう一度」と見渡してみると、有り余る金と時間を使う「遊び場」がないのだ。旅行、ゴルフ、テニス、山歩きといった定番にもそろそろ飽きてきたところに「歌声喫茶」。懐かしさもあって申し込みが殺到したのだろう。小金持ちの年寄りというのは案外寂しいものなのかもしれない。


久しぶりに病気

2008年01月30日 | 今日の出来事
 一昨日の夜あたりから×××のあたりがムズムズしていた。昨日からオシッコをすると少し痛むようになってきた。別に悪いこともしていない、品行方正な日々を送っている。その辺、誤解のないように(^_^;)?

 実は、2年ほど前一度なったことがある。近所の医者へ行くと「女性には多い病気だが、男性では珍しい。何か原因になっている隠れた病気があるかもしれないから精密検査をするように」と大学病院を紹介された。病気はボーコー炎であったのだが、検査の結果は「膀胱憩室」。膀胱の一部が膨らんで牛の胃袋のようにいくつかの部屋((休)憩室?)ができるものだそうで、それ自体が病気というわけではなく、まあ、扁桃腺肥大、イボやホクロみたいなものらしい。ただ、憩室に尿が停滞しやすく場合によっては細菌の繁殖を起こすこともあるらしい。私の症状は、「おそらくそれが元になって起こった膀胱炎だろう。手術で憩室を取り除くこともできるが様子を見ましょう」とのことであった。

 あれから2年、何事も起きず無事過ごせていたのに...。しかたなく、以前診てもらった病院へ行くと、2年前の初診時と同じご高齢の先生が泌尿器科の当番で、抗生剤、抗炎症剤、胃薬を処方してくれた。2年前と全く同じ処方だった。2年前、最初の抗生剤が効かず、2回目受診時に細菌感受性検査で有効であった別の抗生剤を処方してもらってようやく治った。カルテにもその経過は残っているはずだし、てっきり前と同じ抗生剤を処方してくれるものと思っていたのだが。「こういう症状にはまずこういう処方」という、マニュアルでもあるのだろうか?あるいは、感受性検査前は何が効くか分からないから汎用性のある抗生剤を処方することになっていて、前回は運悪くその守備範囲から外れてしまった、ということなのだろうか?
 ま、なんでもいいからとにかく効いてくれ~。

「ジェシー・ジェームズの暗殺」

2008年01月29日 | 映画(西部劇など)

 (アメリカでは超)有名な、南北戦争直後の無法者ジェシー・ジェームズを描いた映画である。「あのブラット・ビットが西部劇」を製作というふれ込みにひかれて観に行ってきた。
 ジェシー・ジェームズは実在の人物で、伝えられるところでは40人前後の銀行強盗団の頭で義賊であったとされており、日本で言えば「石川五右衛門」といったところだろうか。映画に描かれているように、手下がその強権的支配に慄いたかあるいは首に懸けられた賞金に目が眩んだのかは定かではないが、後に手下によって暗殺された。享年34歳であった。
 義賊伝説ができあがった背景には、南北戦争の遺恨が影響していたと思われる。もともと南軍の一員であったジェシー・ジェームズ一味は主に旧北軍地域の銀行などを襲ったため、南北戦争に敗北した旧南軍地域の人々は彼の「活躍?」で溜飲を下げ、義賊伝説が生まれるきっかけとなったのだろう。
 彼の物語は、過去にもいろいろな人物像で映画化されている。単純に粗暴なギャング団の首領であったり、これも実在の兄フランクとのコンビで南北戦争後の沈滞ムードにある南部にあって南部の英雄であったり...。

 今回観てきた「ジェシー・ジェームズの暗殺」は、原作に惚れ込んだブラット・ビットが製作者の一員となり主演もこなすという力の入れようである。ロバート・レッドフォードの再来と言われ二枚目俳優としてはすでに確固たる地位を築いているピットだが、この映画では性格俳優としての実力をも遺憾なく発揮していると思えた。
 善であれ悪であれ、どんな精神的重圧にも全く影響されない完全無欠に強いリーダーなどというのは現実世界ではありえないが、西部劇、特にマカロニウェスタンでは、そんな底は浅いが安心して見ていられる人物が多い。水戸黄門や遠山の金さんみたいなものだ。まあ、そこが娯楽作品の娯楽作品たる所以なのだが。初期のハリウッドウェスタンでは単なるガンアクション痛快活劇でもない作品、例えば名作とされるジョン・ウェインの「駅馬車」やクーパーの「真昼の決闘」などもあることはあった。前者では乗り合わせた複数のキャラクターの絡みをうまく描いていたり、後者では大衆心理を描いたりというのもあったが、所詮底は浅かった。

 しかし、この映画でピットは、強盗団の首領という、虚勢を張ってでも強くあらねばならず、取り巻く配下にも心を許せず猜疑心にさいなまれる、重圧のかかるある意味ナイーブな立場の人物の人間としてのリアルな心の内をよく表現していると思う。暗殺される場面では、むしろそれを望んでいるかのように振舞うジェシーを演じるピット。私の中では確かにジェシー・ジェームズのイメージといえばブラット・ビットのジェシー・ジェームズというふうにはなった。ブラット・ビットという俳優には、女性好みの二枚目俳優の一人くらいの意識しかなかったが、今後の作品を見てみたいという興味がわいた。
 時代背景はまさしく「ウェスタン」ではあるが、もはや単純痛快ないわゆる西部劇ではない。映画を通して表現したかったものの質は異なるが、以前紹介したイーストウッドの「許されざるもの」も西部劇であって西部劇でない、新しい西部劇を提示して見せてくれた。70年代初頭、マカロニウェスタンの衰退とともに西部劇は終わったとされている。西部劇ファンとしては、あの時代背景を利用しつつ視点を変えて現代にも通ずる人物描写、人間分析を見せてくれる新しい西部劇の登場に期待するのはしすぎであろうか。

 余談ではあるが、ジェシー・ジェームズが暗殺された前年(1881年)にはあの有名なワープ兄弟+ドク・ホリディvsクラントン一家の「OKコラルの決闘」があった。
 さらに余談ながら、ピットの二人目の奥様アンジェリーナ・ジョリー(トゥームレイダーなど。あの唇は魅力的)が2人目の子供(双子とのうわさあり2、3人目?)を妊娠中とのニュースが最近流れた。
 


フレーバーコーヒー

2008年01月23日 | 今日の出来事

 所変われば面白いものがあるものだ。
 フレーバーコーヒー。コーヒー豆に様々な香りがつけられているというもの。オーストラリアに住む姪っこが、「試しに飲んでみて。いけそうだったら日本でも売りたい」と、とりあえずサンプルでバニラ、ティラミス、ヘーゼルナッツ、マカダミアンナッツ、チョコレートの5種類を送ってくれた。他にも20種類くらいの香りがあるそうだが、今回は日本人にも好まれそうだと思うものをみつくろってくれたそうだ。

   豆を挽くとき、ほのかにバニラっぽい甘い香りが漂う。が、淹れてみると豆を挽いているときほど香りは感じない。ただ、コーヒーそのものが日本で売られているコーヒーよりはウマイ。偽装ばやりの昨今、日本で売られているコーヒーは、「日本人にはどうせコーヒーの味なんて分からない」と品質の劣るものを売りつけられているのかも?と疑ってしまう。それはさておき、フレーバーコーヒーの本領は実は冷めてからだった。冷めてもウマイ、というか「冷めてからの方がウマイ」のだ。もっとも、これは私の個人的好み、主観だから誰もがウマイと感じるとは限らない。

 日本人にも御香などの香りを楽しむ文化はある。最近では、ハーブティーなどもブームになったことがある。しかし、コーヒーではどうか。モカ、コロンビアなどコーヒー自体の種類やシナモンコーヒーなどというのはあるが、様々な香りつきコーヒーを楽しむという文化は日本で受け入れられるだろうか?


里なび

2008年01月23日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 環境省が、里地里山保全再生活動ボランティアの交流、情報サイト「里なび」を開設した。私も以前から「そのようなサイトがあったらよいのに」と思っていたので大歓迎だ。早速のぞいて見たが、まだまだショボかった。団体登録申請も活動レポートも工事中だった。まあ、今後に期待したい。

 私も「まつたけ十字軍」や「田舎暮らし応援団」など関連する活動に参加させてもらっているが、最近、全国にはそのような団体・グループ・個人が、言葉は悪いが雨後の竹の子よろしく無数に発生している。「里地里山保全再生」あるいは「地域活性化」という掲げる目的はほぼ共通しているものの、個々の活動エリアは狭く、その立場や方法論は様々で混沌としていて、短命、自己満足的なきらいのものや、中には首を傾げざるを得ない活動もある。
 例えば、里山保全にしてもわが「まつたけ十字軍」のように「痩せたアカマツ林」再生を目指すところもあれば、「栄養豊かな?広葉樹林」を目指すところもある。里山の地勢によって保全・再生の方法論や目指すゴールも違って当然だとは思うが。
 森林がCO2吸収削減に「効果あり」とする主張がある一方で「効果なし」とする議論もある。「自然・環境を学ぶ施設」を「莫大な金を遣い、自然・環境を壊して作っている」ような?の付くところもある。

 「もう少し協議・協力・調整し合える場があればもっと大きな力になるだろうに」と思っていたところで、タイムリーではある。ただ一つ気になるのは、事務局となっている「(財)水と緑の惑星保全機構里地ネットワーク」。やっぱり環境省の天下り先?


いのちの食べかた

2008年01月18日 | 映画(西部劇など)

 以前、私はバイオテクノロジー関連の職場にいたので、その方面の話題はついつい気になる。10年位前、モンサントがバイオベンチャーから買い取った特許「ターミネータージーン」で農産物支配を目論んだことがあった。利潤第一の市場経済の下では当然の戦略ではあるが、そうしたイデオロギーによってバイオをはじめとした技術がどのように利用されうるのかということを、古くは原爆や最近では血液製剤の例をひくまでもなく、思い知らされたものであった。

 アメリカでは、クローン牛、豚、山羊などを食用に供することをFDAが承認することになったそうだ。もっとも、アメリカでも消費者の間ではクローン家畜の安全性に対する不安は根強いらしいから、実際に販売されるかどうかについてはまだまだ紆余曲折があるだろうと予測されている。そのくせBS牛や遺伝子組み換え大豆、トウモロコシを買えと日本には押し付けてくるのだから勝手なものだが。
 クローン家畜は、すでにオーストラリアやニュージーランドでは認可されているが、遺伝子組換えのように表示の義務はないから、日本に入ってきているオーストラリア肉がクローンかどうかは日本の消費者には分からない。アメリカでも「表示義務はない」というのがFDAの今のところの見解だ。

 南の海では、実は自分達が目立つことにしか興味がない、おバカな「環境保護?」団体が「鯨を取るな」とTVバラエティーのようなおかしなパフォーマンスをやっていた。あんた達は「いのちを食べること」の重みについて、もっと真剣に考えてからものを言うべきだ。
 日ごろは何も考えずそこらに用意された普通のものを飽食しながら、時々遊び半分にもっともらしい理屈を付けて「ゲテモノ食い」や「珍味食い」をして喜んでいる、アンタもだよ。

 映画「いのちの食べかた」を観てきた。
 私達が日頃食べている食品素材は、どのような過程を経て私達の口に入るのか、ドキュメンタリーで淡々と追った作品だ。映画自体からは直接的なメッセージが発せられるわけではない。暗黙に発せられるメッセージは「これを見てあなたは何を感じ考えますか」というわけだ。
 しかし、その問いかけはずっしりと重い。ブログなどでこの映画に触れているものの中には、あまりの重さに耐え切れず、要旨「そんなこと言ったって食べなきゃ生きていけないんだからしょうがないだろう」と開き直っているものも多い。このブログでも書いたが、私自身も、田舎で「駆除?」された鹿や猪の肉を食したり、分けてもらって燻製を作ったりしている。ご多分にもれず自分で捌くわけでもなく..。反省(._.)ノ。

 「スプラッター映画」というジャンルがある(ジャンルとして一般認知されているのかは知らないが)。「食人帝国」「死霊のはらわた」「サンゲリア」...何本か見たことがある。実は、最初にこの映画のタイトルを見たときは、スプラッターものかと思った。しかし違った。ジャンルとしてはドキュメンタリーで、映像的にいわゆる「これでもか」的なグロさは全くない。見方によってはむしろ「詩情あふれる作品」と受け取れないこともないほどだ。しかし、日常の食事、特に肉食において、その出所に少しでも思いをはせたことのある人なら、この映画になんとも言えない居心地の悪さを感じることだろう。私もそうだった。
 この映画を見終わった後には、スプラッターものを見た後の「怖い、気持ち悪いけれど所詮はありえない、私には関係ない」的な安心感はない。見たくなかった、関わりたくなかった現実、事実を突きつけられたときの、あの居心地の悪さがつきまとう。「しょうがないじゃん」「♪そんなの関係ねえ」で逃げるのは簡単だ。しかし、「食の安全」「自給率」「飽食と飢餓の格差世界」「世界の人口増加と途上国の「発展」、それに伴う食糧需要の爆発的増加」など、食にまつわる問題噴出の今日、この映画を見て考えなければならないことはたくさんある。

 最近、食の(≒食糧)問題では私自身も考えさせられることは多いが、政治的な問題なんかよりもプリミティブすぎて、政治や経済のようには人間の思惑的動機で解明しにくいところもあり逆に難しい。「クローン」や「遺伝子組換え」が直ちに悪いの良いのと判断できない難しさがある。今のところ、私としては一庶民のできるささやかな食対策として、将来窮しても自らの食い扶持だけは確保できるようにしておくくらいしかないのだが、食まで自分の欲のために利用しようとする人間にだけはならないようにしようと思う。


おバカ

2008年01月13日 | このごろ思うこと
 TVのニュースショーで「日本の一人当たりGDPが世界18位にまで落ちてしまった」と嘆いていた。何を嘆く必要があるのか。GDPの経済指標としての意味自体にも問題はある---例えば、消費者に渡るまで数段階を経る流通が、産直や地産地消になれば統計上のGDPは減少する---が、少なくともこれは<「経済成長」鈍化=環境負荷がわずかでも軽減された>証なのでありむしろ喜ぶべき出来事ではないか。株価も低迷している。結構なことだ。バーチャル金満ゲームの時代にようやく陰りが見え始めたということだ。そろそろ経済成長率と株価の動向に一喜一憂する社会から、極力少ない環境負荷で全ての人が等しく幸福感を持てる社会=「持続可能な社会」に移行すべきチャンスととらえるべきなのだ。

 前にも書いたが、そんな社会って実は「共産主義社会」なのではないか。そんなふうに考える人が増え始めると、自分達だけがオイシイ目を見ることができにくくなって大いに困る方々も大勢いらっしゃるから、またぞろ「循環型社会」だの「二大政党制」だのといった目くらましをかましてくるのだろうが。

 中国みたいになりたいのかというかもしれないが、中国はもはや社会主義でもなければ共産主義でもない、資本主義国家そのものだ。
 <社会主義=悪>とする格好の存在だったソ連は、資源大国、プーチニズムのロシア帝国となって間もなくアメリカに取って代わるだろう。極寒のシベリアが資源供給、生産、居住地として生まれ変わる可能性を秘めた地球温暖化を、プーチンは密かにほくそ笑んで心待ちにしているに違いない。
 誰がなっても同じ、用意された選択肢しかない、自由主義、民主主義のベールを被せた巧妙な独裁茶番大統領選挙で大騒ぎのアメリカサン。資源も何もない「きむじょんいる帝国」の利用価値は、「テロ国家」を煽って弱体化する自国の目くらまし程度しかないのだから、アメリカ頼りの「拉致問題解決」なんて気休めでしかない。
 環境先進国を自認するEU諸国の真の狙いは、ワールドワイドの「排出権市場」を確立し、石炭大量消費東側国家を引き込んで1990年時点ですでにMAXで、後はほうっておいても下がる一方のCO2排出権取引で漁夫の利を得ることなのに、アメリカサンの腰ぎんちゃく日本はすっかりのせられ、排出権取引でなんとか世界のご機嫌を取ろうと図っている。

 全く、日本の政治は流行のTV番組ではないが「KYのおバカ」ばかりだ。TVインタビューを受ける国民も他人事みたいな予定調和的批判はするが「~してくれ」というばかりで、自分では何もしようとしない。どうせ人頼みなら、言ってる事はまだましな共産党に一度日本の運営をやらせてみてはどうか。だめならまた替えればいい。強権独裁政治を恐れる向きもあるが、それを許すほど「おバカ」な国民ならそれだけのレベルでしかなかったってことで、それこそ自己責任ではないか。

1月12日 床はり

2008年01月12日 | ログハウス

 新年初仕事は床張り。10枚ほど張ったできたての床の上で記念写真。


時雨れて時折風も吹き寒いが、昨年デッキを仕上げたおかげでなんとか屋根の下で作業ができた。床材も出来あいのものではなく、加工から手作りするので遅々として進まない。

作業は、1)原材の整形班、2)整形材のカンナかけとあいじゃくり加工班、3)根太への取り付け班の3班に別れて行った。また、根太の束補強、丸太壁の切り出し(アーチカット)も行った。

<原材の加工>

写真手前は整形班で、たわんだりしている原材の両サイドを丸ノコで平行に切りそろえています。左奥が加工班。カンナで表面仕上げし、溝切りカンナで両サイドを合いじゃくり加工しています。白く舞っているのは雪ではありません、オガコです。

<加工できた床材の取り付け>

5枚ほど張り終えました。

ログ教室開始当初から1年半にわたる長期取材を続けてこられた「間伐材新聞」の幹田さんが、作業レポートが載ったできたての新聞を届けてくださった。素晴らしいレポートをありがとうございます。


西部に飛行機?

2008年01月11日 | 映画(西部劇など)
 前の日曜日、ホームセンターでバッタもん?のDVDを売っていた。480円に惹かれて見に行くと、たくさんの映画タイトルに混じって懐かしい映画が、あった!子供の頃、日曜洋画劇場か何かでどきどきしながら見たかすかな記憶が呼び覚まされ、ついつい買いあさってしまった。TUTAYAなんかでまともに買えば2,000円とか4,000円とかするからまあ安い買い物だった。で、今週は西部劇三昧であった^_^;。これらのタイトルはいわゆるB級マカロニウェスタン以前の正統派“ハリウッド”ウェスタン?だ。ジョン・ウェイン、ゲーリー・クーパー、ジェームズ・スチュアート、ヘンリー・フォンダ、カーク・ダグラスにアンソニー・クイン...、女優陣ではあのマレーネ・ディートリッヒにかけだしの若きグレース・ケリー...。グレース・ケリーの近寄りがたい美貌は鳥肌ものだ。

 で、真ん中の「真昼の決闘」。アカデミー主演男優賞作品で、私の大好きなリー・バン・クリーフのちょい役初期出演作だ。まだ若いバン・クリーフは、「夕陽のガンマン」や「怒りの荒野」で見せた円熟期の迫力もまだなく、いかにも切られ役といったチンピラ風情で、映っている時間は案外長いがセリフも一言しかしゃべらせてもらっていない。
 それはさておき、上映早々仰天してしまった!
以前保安官のゲーリー・クーパーに監獄にぶち込まれたならず者のボスが釈放されて戻ってくるのを、リー・バン・クリーフともうひとりの子分が駅で待っているシーン。なんと、はるか上空かすかに飛行機が飛んでいるのだ!ライト兄弟の動力機初飛行が20世紀初頭だから、この時代に飛行機が飛んでいるはずがない!おそらくロケ時に偶然通りかかった飛行機が映りこんでしまったものだろう。映画製作者も気づかなかったのだろうか?それとも何らかの事情で見切り発車してしまったのか。これはトリビアだ!残念ながら番組はもう終わってしまったが。

「持続可能な循環型社会」と「共産主義」

2008年01月11日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

冒頭写真はホット飲料用PETボトルを分解したところ。なんと四層構造になっている。加温による破裂に耐えるようにするためなのだろうが、そこまでして必要な商品だろうか?
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 東京23区では、今年度(2008年度)からプラゴミは可燃ゴミカテゴリーに戻されて一括回収されることになるという。おそらく、<分別回収費用>対<環境負荷軽減効果>を考えてのあまりの税金と家計費の無駄遣いのバカバカしさに対する批判が、ゴミ利権関係者や御用環境論者の継続圧力に勝ったのだろう。京都では、市環境部局と民間のゴミ利権関係者、さらには関連圧力団体がゴミ事業を牛耳っているので転換はありえないだろうが。いやむしろ京都では、利権拡大のためのさらなる分別細分化や有料化などで余計な仕事が増やされていくことだろう。

 京都市環境局(利権その1)によって分別収集されたプラゴミ、PETゴミは、民間中間処理業者(利権その2)のところでさらに汚れなどで使いようのないものが分別され、なんとか金になるごく一部のプラゴミ、PETゴミが再生業者(利権その3)に回される。再生品ももとどおりの同じ包装容器にまで再生されるためには、回収品にも100%近い純度が要求されるから微々たるもので、大半は不純物が混入していてもなんとかなる下位のベンチだの園芸資材だの、それだけのコストをかける意味があるのかと思わざるを得ないどうでもいいようなものが作られるだけだ。
 プラゴミ、PETゴミ分別収集がいかに無意味なことかを示す一つが再生プラ包装、PET容器マークが存在しないことだ。紙ではこれ見よがしに再生紙マークが付けられているのに。まあ、「再生マークを付けた包装材では消費者に敬遠されるから」とでも言い訳するのだろう。

 中間処理業者のところで箸にも棒にもかからない汚れ物として排除されたプラゴミの行方はどこか?答えは、再び市の焼却場に戻ってくるのだ。プラゴミを排除された一般家庭ゴミ(いわゆる燃えるゴミ)は大半が生ゴミだ。生ゴミは燃えにくい。従って焼却には石油製品を助燃材として加える必要がある。再生不可能として業者から突返されてきた大半のプラゴミは、また市が引き取って家庭ゴミの助燃材代わりとなって焼却炉に放り込まれるのだ。まったく馬鹿げている。なぜこんなことがまかり通るのだろう?もうこんなバカバカしい分別はやめようと思っている。うちだけではアリの小便にもならないささやかな抵抗でしかないが。

 さて、「なぜ、たかがゴミ分別程度のことにそんなに噛みつくのか?」という向きもあるだろう。それは、私にはこの例が日本の環境に関係した運動や行政、研究、ひいてはサブプライムローンから石油高騰、「地球温暖化?」などなど噴出している世界的体制矛盾すべての象徴のように思えてならないからなのだ。
 「環境問題」と「環境ビジネス」が表裏一体の流行となるくらい、いまや「環境」は金儲けの具となってしまった。さらにそれだけではない。環境問題から派生して、その解決のためには「持続可能な循環型社会」に移行しなければならないなどと、本来、現代資本主義社会の抱える体制矛盾から生じている様々な問題から目をそらさせ、「持続可能な循環型社会」などという体制枠内での改革幻想で糊塗しようとする、古くて新しい姑息な体制延命策に反体制、体制懐疑派も含めて乗せられている、まさに環境大政翼賛会といった現状に危惧を抱かざるを得ない。

 そもそも環境、エネルギー、食糧、貧困・格差など、噴出する問題点の根源はあくなき金儲けを是とする現代資本主義体制にある。そこをつかずして何の解決もない。エセ環境論者を告発した「環境問題はなぜウソがまかり通るのか2」という書がある。基本的スタンス自体は体制派の著者には、自身が「データ運用や論旨が政治的、利己的」と批判するエセ環境論者の流儀に著者自身もハマっていることに気づいていないというきらいはあるが、「環境問題の解決策は簡単なこと、経済を縮小し、皆が年収減を受け入れ金を使わない生活をすればいいだけのことだ」という一点で本書を支持する。


 そもそも、「金を稼ぐ」ということは「地球環境への負荷手形をとりつけている」ということであり、「金を遣う」ということは「地球環境への負荷手形を行使する」ということに他ならない。金を遣って買う「何か」はその生産のために必ず何らかの資源・エネルギーを消費している。無から有は生まれない。それが経済的商品価値というものだ。「そこに人間の手(労働)が加えられることによって新たな価値が付加される(労働価値説)」と説いたのはマルクスであった。すなわち、「金持ちか貧乏か」は「環境に与える負荷が大きいか小さいか」の差だ。金を遣えば遣うほど環境に負荷をかけているということで、環境への過度の負荷が罪であるとするならば、金を遣うものは犯罪者なのだ。
 実はそのことを自覚していながら、いや自覚しているからこそ自分達だけが湯水のように金を遣い、享楽の限りを尽くすことで相対的優越感、幸福感を得ようという者たちが体制維持対策上持ち出してきたしたのが、他ならない「持続可能な循環型社会」などという欺瞞の産物なのだ。過去、資本主義国家は様々な問題を抱えながらも、「始末の悪い自称社会主義・共産主義国家」の存在のおかげで、よりましな体制として見逃されてきた。それらが自滅して隠れ蓑がなくなると、今度は「福祉国家」だの「実力(成果)主義」だの「独立起業時代」だの「物から心の豊かさへ」などとあの手この手で誤魔化して延命を図ってきた。そしてここにいたっての世界をまたにかけた究極の延命策が「持続可能な循環型社会」というわけだ。もしかしたら「田舎暮らしのススメ」もその一環かもしれない。

 カバン持ちの「環境屋」はいざ知らず、善意の「環境家」もこの単純な原理に気づいていない、気づこうともしないし気づいても認めようとしない、みな釈迦の手の内の孫悟空なのだ。そしてエネルギーも資源も経済も安全も教育も何もかもが、本来企業、行政、国家レベルで行わなければ解決不可能な問題なのに、庶民一人ひとりの個人レベルで行うべきこととして、資源を無駄に使うな、省エネしろ、ゴミは分別しろのと、無意味な空回りを次々と押し付けてきて、世を洞察し隠された真実を見抜く暇を与えないようにしてしまう。
 「勤勉で真面目?」な日本人は何の疑問も持たず、お上や偉い人の言うことだからと、無意味な分別をし、物心付くかつかないかの幼少時から競争に駆り立てられ、体制の下僕となっていくのだ。そんな「持続可能な循環型社会」に踊らされるのは、私は真っ平だ。本当の解決策があるはずだ。
 唐突だが、「共産主義」ってそんなに悪いものなのだろうか?ひと時のうたかたのように浮かんで消えていった「東側世界」は本当に「共産主義」だったのだろうか?いつの時代にもどこの国でも、体制派が庶民に最も目を向けさせたくない、隠しておきたいところに実は真実が隠されていることが多い。トッテンさんも言っているように、実は「共産主義」も悪くない選択なのかもしれない。


トマソン

2008年01月11日 | 今日の出来事
 一昨年から足掛け2年、大江でログハウス作りの修行をしてきた。よくある講習料が高いわりに小屋程度のものでお茶を濁す通り一遍の教室と違い、本格的なログハウスを基礎から屋根まで体験した。失敗もたくさんしたけれど自信はついた。今年こそは自分用のログハウスに取りかかりたいと思っている。で、何をさておきまず必要になるのは丸太だ。いくら国産材市場が低迷しているとはいえまとまった数となると安くはない。金は無いしどうしたものかと思案していたが、花背に住む高校からの友人M氏から耳寄りな話をもらった。花背は京都市左京区内でありながら、田舎よりも田舎な辺境の地だ。そのまだ奥地で林業をやっている方がいてひょっとしたら杉をもらえるかもしれないという。早速行ってきた。
 元で20~25cm、要するに間伐だ。決して太くはないが使えなくはなさそうだ。ただし、自分で切り出して持っていくこと、切り出すときに他の残す木を傷つけないようにすることが条件。本格的な切り出しなどやったことのないどシロウトにはなかなか厳しい、というか不可能に近い条件だ。しかしタダでくれるというのは魅力。なんとか手を考えてみることにした。
 オマケだがカービング用に端材もいただけるとのこと。こちらの方はなんとかなるしありがたいことだ。

 で、タイトル写真。友人宅へ行く途中の道路(一応国道^_^;)にこんな??なものがあった。山の中腹まで橋がかかっているのだが、なんと山の崖にぶつかって行き止まりなのだ。聞けば新しく迂回道路を建設中だが例の「道路公団」問題で山を貫くはずのトンネル工事がストップしていて橋だけ先に出来上がってしまい、こんな「トマソン」状態のまま放置されているのだとか。雇用保険で建てたグリーンピアといい、簡易保険の保養所といい、社会保険庁といい、まったくなにをやってるのか。

駐車場と「とらぬ狸の皮算用」

2008年01月04日 | どうでもいいことだけど...
 何事も金、金、金、の世の中、田舎暮らしでも何がしかの金はいる。「田舎暮らし応援団」の資金稼ぎのため、初詣客相手に駐車場経営をすることになった。その様子は「応援団」メンバーの ゆゆさんのブログに詳しい。

 この地には「元伊勢内宮皇大神社」という歴史と伝統のある神社がある。
「皇大神が、伊勢に転居する前に宮を開いた」とされ、地元では伊勢より古いと誇りにされている由緒ある宮である。

 大晦日から正月には、ふだんはそれこそ「車もそれほど走ってない」田舎道が、参拝車の行列で渋滞するというほど初詣客が押し寄せるという。その車を当て込んで、駐車場経営で一稼ぎしようというわけだ。
 当初、「3日間で50万円、場合によっては100万円!?」という、ヨダレの出そうな話に、みな張り切って立派な看板も作り万全の体制で臨んだ。結果は...まあ、ゆゆさんブログをご覧ください(^_^;。

 「取らぬ狸の皮算用」ではあったが、まあ楽しかったし損するほどでもなかったのでよかった。
 さて、ここからが「どうでもいいこと」なのだが、「とらぬ狸の皮算用」の「とらぬ」にはまる漢字は何だろう?というところで大いに悩んだのである。
 パソコンの変換では「取らぬ」と出る。しかし狸を「取る」ではなく狸は「獲る」だろうと調べてみると、あにはからんや「捕らぬ狸の皮算用」としている例はあっても「獲らぬ狸の皮算用」の用例は見つけることができなかった。でも、私の中ではやはり「獲らぬ狸の皮算用」が正解だと思う。どうでもいいことですが(^_^;。
 ちなみに、「とらぬ狸の皮算用」はどこで区切るのでしょうか?「とらぬ狸の、皮算用」ではなく「とらぬ狸の皮、算用」です。

 話をもどして、「元伊勢内宮皇大神社」に御参りしてきた。本殿とは別に、年に一度お集まりになる八百万の神がお泊りになるというそれぞれの神様用の別荘?が並んでいて、まるで「ミニ出雲大社」のようであった。


プチ田舎暮らし

2008年01月04日 | ログハウス

 久しぶりの更新。年末年始は大江のKさん宅をお借りしてのプチ田舎暮らし(^_^)を楽しんだ。
 ネットもない、新聞もない、携帯もない(私のauは圏外、ドコモは通じる)、最も近いスーパーまで約6km、夜は真っ暗でまさに「シーン」という音?しか聞こえてこない。そういえばむかし、「ハァ~、テレビもねえ、電話もねえ、ガスもねえ、喫茶もねえ、車もそれほど走ってねえ、...」という歌があったなあ。今では総数たった13世帯のこの集落も、今はテレビや電話はあるが昔は似たようなものだったんだろうな。
 「静かだけど寂しい正月になるな」と思っていたが、お向かいさんから餅やお米やシイタケやお酒を差し入れていただいたり、途中から同宿のYさんが自家製のおせちを持参されたりで、田舎の正月を満喫できた。

 この集落では村おこしの棚田オーナー制度というのがあって、都会の住人などが米作り体験をできるのだが、収穫した酒米で「大鬼」という地酒が造られている。これが最高にウマイ。特に、限定生産で生産直後には品切れになってしまう幻の吟醸生酒「大鬼」は絶品だ。海外でも好評で、今年はニューヨークで販売会が開かれるという。ここには、都会のような至れり尽くせりの便利さ(ただし全ては金次第だ)はないが、都会には無い良いものがたくさんある。
 

 さて、年末も押し迫った29日、デッキの仕上げをした。広くてなかなかよい感じに仕上がった。春になったらウェスタンウェアにブーツで決めて、リー・バン・クリーフのガンマン気分で、コツコツとパイプでもくわえながら歩いてみたいものだ。


 雪深い(はずの?)この地域のこと、年内には屋根を仕上げておかないとということで先週末、突貫工事でふき終えた本屋根頂上の水仕舞い工事も、30日に業者さんが来てくれてなんとか完成し記念撮影(画像クリックで拡大画像見れます)。