WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

バター、小麦、お肉が...

2008年06月23日 | 今日の出来事


先日、行きつけの生協で運よくゲットしたバター。こんなものがネタになる世の中になったなんて、貴重品だ。
しかし、このところはまた品切れが続いている。ヤフオクにでも出してみようか

これまた行きつけ、出町商店街の肉屋さんのメンチカツ。安くておいしいのでよく利用している。。
ところが、100円だったのが120円になっていた。20%もの値上げだ。肉、小麦、パン粉、油などの原材料が全て値上がりし、値上げせざるをえないのだとか。

そのうえ、包装もこれまでは薄く切った木の包装材だったのが紙袋になった。揚げ油が滲みて袋が破れてしまった。

 野菜はその気になれば、誰でもまあまあ自給できる。よく自給というと野菜の自給で満足している人が多いが、問題は、乳製品、畜産品、小麦、油、大豆製品だ。全ての人が個人で自給するのはなかなか難しいだろう。
 「自由化」された米と違って、小麦には「前年度の価格の±7%以内に価格を抑えないといけない」という、規則があるそうだ。だからといってこの範囲を外れそうになっても政府が特に価格保証など調整するわけではない。小麦農家は生産コストが上がっても販売価格を7%以上は上げられず、逆に豊作で価格を7%下げても売れなければそれまで、という奇妙な規則だ。おまけに小麦は専用農業機械など米よりコストが高くつくようだ。

 2年ほど前、タンパク質の自給源として山羊の飼育を考え、山羊牧場でしばらく研修させてもらったことがある。植物と違って動物は毎日世話しないといけない。休み無しだ。その牧場でも、オーナーは休みが取れるが、飼育の現場担当者は安給料で休みも取れず、大変な作業を連日こなしていた。とても誰もができるものではないと思った。しかも家畜というのは予想以上によく食う。その牧場でも飼料の自給までは手が回らず、結局外国産の飼料を買って与えていた。そのコストがまたバカにならないし、飼料自体の輸入がストップしたら一巻の終わりだ。
 燃油高騰で海産物にも影響が出ている。魚を釣って自給すればよいとのん気なことを言う人もあるが、日本人全員が魚釣りをしだしたら、またたくまに日本の川や磯からは魚が消えるだろう。

 やはり国として畜産物・乳製品、海産物自給体制をどうしていくのかが問われている。


日本が中国から侵略を受けずに済んでいるのは、中国共産党のおかげ?

2008年06月23日 | このごろ思うこと

 チベット問題では、「中国は、独立・自由化を求めるチベット人はもとより、自国内でも国民を抑圧している共産党独裁国家」という従前からの認識を再確認した(と信じて疑わない)人が大多数だろう。

 最近、あるローカル新聞で中国研究家の学者がこんな見解を提示していた。
「中国政府は情報制御、公安強化によって、むしろ自国民の中にあるチベット人排外、(外国の中国批判に)先鋭化する愛国ナショナリスト達の妄動を抑えているのだ。そうしたナショナリズムを抑え切れなかったのが戦前の日本であり、無謀な侵略戦争へと突き進んでいった。」

 今の日本では、この見解を受け入れがたい人がほとんどだろう。私も正直、素直には受け入れがたかった。しかし、受け入れがたい抵抗感はあるにしてもそれを否定する根拠も持ち合わせていないのも事実だ。実際、日本が太平洋戦争にのめりこんでいった経緯としてはうなづけるものがある。逆に、こうした見解を反射的に撥ねつけてしまうほどに、私達は日ごろからメディアなどを通して洗脳されているとも考えられる。
 いろいろな会話の場で中国やロシアのことが話題になると、「共産圏=共産党独裁=恐怖政治の抑圧国家」と刷り込まれているとしか思えない、紋切り型の反応しかしない人が多い。
 確かに過去の自称共産主義国はそんな国がほとんどだった。しかし、それが共産主義の本質かどうかを疑うくらいの柔軟さは持ち合わせていてもよい。そうでないと、気づかないうちに巧妙な政治、思想支配に従わされてしまうことになる。これは、もちろん逆もまた真なりだが。
 少なくとも「共に生産し成果を分かち合う」という共産主義の基本理念事態は正しいと思う。「自由・民主」と称するから「自由」と「民主主義」の党、国かというとそうでもないのと同様に、「共産主義」と称するから悪とも限らない。「自称」ほど当てにならないものはない。

 個人的には、今のロシアは、旧官僚特権階級主導の社会主義の負の遺産と資本主義とが合体した、何をするか分からない怪物ミュータント国家、中国は中国共産党独裁のバリバリの資本主義国家だと思っている。ついでに言えば、今のアメリカは、荒廃・疲弊し過ぎてもはや他国を収奪せずには成立し得ない、醜悪な老資本主義国、日本は悲しいかな、その腰ぎんちゃく・金魚のフンだ。と、今は思っているが、人間は自分の判断が正しいと思いたい生き物であり、自分で自分を自己洗脳している場合もあるので、そうでない可能性を示す兆候が現れないかには注意ははらっている。

 いずれにしても、「中国共産党政府の「恐怖政治」のおかげで、超大国中国の“軍事侵略国家化”が防げている」とする見方もありうるということを認められる、柔軟な思考回路だけは失わないようにしたい。


国家安康の鐘

2008年06月19日 | おもしろ博物館

 神も仏も全く信じておりませんが、実は私、結構お寺は好きです。それもちょっとマイナーだけれど実は..、といったような。で、今日は中でも好きなお寺の一つ方広寺というお寺のお話。

 このお寺は、京都でも“お寺銀座”と言ってもいい京都駅周辺地区に位置し、近辺には清水寺、知恩院、三十三間堂、東本願寺、西本願寺、東福寺、泉湧寺、東寺..、などなどそうそうたる寺群が徒歩圏内にあります。
 そのため普段は立ち寄る人も少なく知る人ぞ知る小寺ですが、その素性は由緒正しく生い立ちは波乱万丈そのものだったのです。

 創建はかの太閤秀吉!。金箔好きだった太閤さんのこと、当初本尊の大仏は高さ20m近く、漆塗りの金箔張り、これを収めた大仏殿は高さナント50mもあったんだそうな。
 その大仏と大仏殿も慶長の大地震で倒壊、太閤亡き後、徳川家康の後押しで息子秀頼により秀吉公供養のため再建されましたが、またまた地震で倒壊、木造で再々建されたがそれも火災で焼失し、現在は高さ約3mのご本尊をまつった本堂と大黒天、大鐘楼を残すのみとなっています。

 実はこの大鐘楼、ご存知の方も多いと思いますが、これこそ豊臣家滅亡のきっかけとなった歴史的いわくの鐘なのです。そう、あの鐘楼に刻まれた「..国家安康 君臣豊楽..」の銘が家康の逆鱗に触れ、豊臣家“お取り潰し”となったのでした。この鐘は高さ4mあまりもあり、大晦日だけは除夜の鐘を撞きに来る人たちでごったがえすのです。その音はまさに荘厳そのものです。

 少し前置きが長くなりましたが、なぜこのお寺が好きなのかと言いますと、これだけのいわれがありながら実に開放的、庶民的というか、適当というか、とにかく想定外のハチャメチャなお寺なのです。
① 拝観料が激安。大人たったの200円!
② 本尊、大黒さんはじめ寺内のものは触り放題、写真撮り放題。頼めば鐘楼の中も見学OK
もちろん、ムチャクチャしていいわけではありませんが、こんなお寺まずありませんね。どんなしょうもない寺でも、大抵薄っぺらな威厳を保つために、写真撮影NGはもちろん、仏さんの“お触り”なんかもってのほかじゃないですか。
③ 文化財指定品もあるのに鍵が掛けてなく、戸締りはなんとつっかい棒!

 住職さんがおおらかなのか、ヤル気ないのか、まあ、拝観させていただく方にとってはありがたいといえばありがたいのですが、かなり傷みの見られる堂内や、あまりに無造作すぎる文化財の保管状態を見るにつけ、少し拝観料を値上げしてもよいからもうちょっと宣伝し拝観者を増やして収入を増やし、建物の修復や文化財保管、防犯にお金をかけては、とついつい心配になってしまうほどです。ま、ある意味パラダイス

ご本尊

大黒天

不動明王。個人的にはこれが凄いと思う。

龍。左甚五郎の作と言われているが、座敷に無造作に置いてある。

店番兼案内のおばちゃん(案内ぶりにいい味あり)と「国家安康」のレプリカ、机の上に無造作に“展示”?されている倒壊した大仏の台座の一部。

大鐘楼。人と比べればその大きさが分かる。

大晦日には誰でも鐘撞き体験ができる、行列のできる大鐘楼。

こんな重い鐘楼を、昔の人はどうやって持ち上げ、吊るしたのだろうか?


まつたけ人工栽培

2008年06月17日 | まつたけ

地掻き堆肥を入れチップマルチを施したトマト畑の途中経過
今のところ順調

 さて、今日の新聞報道によると、タカラバイオが人工培養でマツタケの子実体原基を発生させることに成功した。過去にも成功例はあったが再現性が無かった。今回の成功では、再現性があるらしくそこが最大のポイントだ。

 もっとも子実体原基の発生に成功したからといってすぐにマツタケができるわけではない。例えれば、人参の細胞をフラスコで培養し、ガンのような人参細胞の塊(カルス)を作りだすことができた、といったようなものだ。子実体原基からさらに子実体(キノコとしてのマツタケ)を形成させるまでには、まだまだ高いハードルが待っているだろう。

 さて、はたしてマツタケの人工栽培が成功し、エリンギ並みに1パック百円のマツタケがスーパーの店頭に並ぶことがほんとうにいいことなのだろうか?私も末席に加えていただいている「まつたけ十字軍」は、人工栽培ではなく林地、里山でのマツタケ復活にこだわっている。それは「マツタケを大量に人工栽培して一儲け」などといったケチな考えではなく、日本の風土が育んだ里山と暮らす文化と食文化としてのまつたけ復活を目指しているからだ。

 難病治療薬などバイオテクノロジーが人間にとって有用なものを作り出し、より生活の質を向上できる可能性は大いにあるだろう。しかし、この技術を利益や効率優先で安易に利用すると、無くてもよい(無い方がよい)ものやかえって有害なものを作り出したり、せっかく長い年月をかけて育んできた文化を壊してしまうことにもなりかねない。


岩倉川のホタルと国際会館

2008年06月16日 | 岩倉発見記

ご近所さんと岩倉川のホタルを見に行ってきた。
(クリックで拡大)
 岩倉実相院近くの岩倉川、目無橋付近。家や街灯の明かりのためかイマイチはっきりと撮れなかったが、数匹飛んでいるのがお分かりいただけるだろうか。

 昔は宝ヶ池あたりまでたくさんいたらしいが、今ではかなり減っており、ここから十王堂橋まで下る途中でまったくいなくなってしまった。十王堂橋から下、同志社高校前を通って国際会館へ至る川沿いは、宅地開発で川底がさらわれ、国際会館を流れるあたりはコンクリート化されてもはやホタルが生息出来る環境ではなくなってしまっている。

 国際会議で外国人が集まる国際会館周辺だけは、無理やり地下鉄も通し、宅地や道路も区画整理され、明らかに外国人の目を意識して整備された宝ヶ池公園は、周辺の農村風景からは異様なまでに浮いており、会議場周辺の山も目に付くところだけはまつたけが生えそうなキレイなアカマツ林に整備され、美しい自然のはずなのになんか不自然だ。
 昨年は北山通りからのとりつけ通りも整備され、通過中に見える京都市内の眺望は確かによくなったが、カブトムシやクワガタ、シバグリの採れた昔の狐坂の面影はもはやない。。これで京都駅から堀川通り-北山通り-新狐坂-国際会館と「美しい京都」を見せるアクセス道路が完成したわけだ。見えるところだけ飾り立てるのは何も北朝鮮の専売特許ではない。

 そう言えば、来月の洞爺湖G8に向けた外相会議が始まるのは明日からだったっけ?国際会館周辺は20mおきくらいに警官が立ち並び、検問が行われていた。
 各国外相達が、里山を流れる小川のホタルに日本の風情を感じることはないだろう。


錯覚

2008年06月15日 | このごろ思うこと

 アキバ無差別殺傷事件についてTVである犯罪心理学者サンが、「学生運動華やかなりし頃は全共闘や新左翼が、社会から落ちこぼれた若者のガス抜きの受け皿になっていた。現代はそうした受け皿がなく、欲求不満の捌け口が他人への無差別な攻撃性となって現れている」とコメントしていた。
 それはちょっと違うだろう。60年代後半というと大学進学率はわずか10数%。当時、全共闘や新左翼運動を主導していた学生連中は、いわばエリート予備軍(もしくはすでにエリート)だったのであって、決して「欲求不満の落ちこぼれ」では無かった。実際、彼ら「革命戦士」の多くはこっそり旗を降ろして、立派な「企業戦士」となっていった。(本稿の本題からはそれるが、全共闘・新左翼については、当事者は黙して語らず、あの体制側機関紙「産経新聞」が「総括」を試みているのは興味深い)

 また、現代の若者の受け皿を特徴付けるものとして「ネットバーチャル社会」をあげる論評もあった。確かにそういう一面もあるだろうが、これまた本質的ではないと思える。

 今日、あるTV番組で「人の脳の錯覚」が取り上げられていた。
 昔から「だまし絵」という分野がある。見方によって若い女性に見えたり老婆に見えたりする絵や壁に飾られた額が実は描かれたものであったり。だまし絵を芸術にまで高めたルネ・マグリットなどが有名だ。
 こうした二次元的「だまし絵」から発展して、最近では立体的な「だまし絵」も登場している。TVで紹介されていたのは、ペーパークラフトの恐竜。動くはずのない紙の恐竜が、どの方向から見ても顔を動かして観察者の方に目線を向けてくるように見えるのだ。そのからくりは、恐竜の顔で鼻や額など凸である(と人間が思い込んでいる)部分と、目の周囲など凹である(と人間が思い込んでいる)部分とが逆に作られており、その逆凹凸が錯覚を引き起こすのだ。
 同じような例で、ビル街の絵。二次元的な古典的遠近法では、道の先やビルの遠端などは遠くへ行くほどだんだん狭くなるように描かれる。6月13日の写真、私の足が長く見えるとしたらこれもまたカメラの特性を利用した“錯覚”だ
 この古典的二次元遠近法の絵に、さらに遠近を逆にした三次元的凹凸を付け加えるとどうなるか。観察者が動くと、まるで絵の中のビル街を歩いているように景色も動き変わる(ように見える)のだ!。まるでテレビゲームのディスプレイに展開されるバーチャル世界のようにだ。逆遠近法というのだそうだ。

人間の脳には、
1.ものをいつも見慣れているふうに見ようとする。
2.同じものを見続けていると疲れてきて、それに対する集中が弱くなり、逆のものを見たがったり認識しようとする。
3.遠くにあるものは荒い輪郭を見るが細かい輪郭は見えない。逆に、近くにあるものは細かい輪郭は見えても荒い輪郭は見えなくなる。
といった特徴があるらしい。そこからあるがままの本質ではない、実際にはないものを見たり認識したとする“錯覚”が生まれる。

 考えてみると、社会現象や政治、経済、環境問題などあらゆる事象に対しても、人間の脳は錯覚を起こしている(あるいは起こさせられている)可能性が十分にある。冒頭の学者センセイの浅薄な論評などそうした“錯覚”の典型だ。少なくとも今、自分が見聞きし感じたりしていることが実は“錯覚”ではないのか、いつもちょっと立ち止まって考えてみること、要するに「世の中を常に疑い、斜めに見る」ことは実は大事なことなのだと思う。

 最後に、TVでの交通事故回避実験。これは“錯覚”の域を超えているとは思ったのだが。
 ある処置をされた歩行者は、後から近づいてくる車(実験では自転車)を必ず避けるようになる。被験者の歩行者は、頭に特殊なヘッドホンを装着している。そのヘッドホンには左右に電極が付いており、第三者がリモコンで無線信号を送ると電極を通して歩行者の内耳に微弱な電流が流れるようになっている。人間は内耳(三半規管?)で平衡感覚をコントロールしているのはよく知られているが、微弱電流が流れると+側に重心が動いたと“錯覚”し無意識に歩く方向を電流の流れる方向へ変えるのだ。
 いくら交通事故が避けられるといっても、皆ヘッドホンを付けて歩き、事故が起きそうになると監視システムから無線で命令が送信され、無意識に歩く方向を変えるなんて、まるで「マトリックス」の世界だ。オウムのヘッドギアはバカバカしくてむしろ微笑ましかったが、こいつは不気味この上ない。しかし、こんな研究もされていることは知っておいた方がいい。


田舎のイモねえちゃん

2008年06月12日 | 好きなうた

 WHSまさよさんのソロライブ in HONKY TONK。バンドにはバンドの良さがあるが、アコ一本のカントリーソロもいいものだ。

 ソロで聞かせるには実力が問われる。ギターはさておき、彼女の歌声はまさにカントリーのためにある。目を閉じて聴いていると、西部の大草原、煙立ち昇るログハウス、乾いた岩山、雪を抱くロッキーの山なみがまぶたに浮かんでくる。日本人で本物のカントリーフレーバーを醸し出せる数少ない女性ボーカルだ。

休憩時間、くつろぐまさよさん。

カントリー娘はやっぱり田舎のイモねえちゃんがいい(褒めてるんですよ)。


恋する宇宙に人類は

2008年06月11日 | このごろ思うこと

 政府がプロパガンダし続けている外的(外敵)テロがやはり「狼少年」であった様相を呈している今日この頃、日本ではまたまた内なるテロが起こった。アキバ無差別殺傷事件。

 K容疑者は、一度派遣先の工場からクビを言い渡され、その2、3日後、派遣先の工場は解雇を撤回したらしい。しかし、事件後の記者会見で工場側は、一度解雇を言い渡していることには口をつぐみ、「解雇はしていない」などと“派遣”という不安定雇用が動機の一因になっていると推測されないよう図ったと見られる発言をしていた。

 確かに、競争社会の中で子供の頃から“できる子”を演じることを求められ、結局演じ切れなかった容疑者の個人的資質が犯罪の大きな構成要因ではあるだろう。しかし、犯行(反抗?)を実行させようとする悪魔の声と、人間としての理性の声とが容疑者の心の中でせめぎあっているときに、容疑者の置かれていた現代日本社会の情況が悪魔の声の実行スイッチをONにする要因になったことは否めないだろう。

 人間は誰もが多かれ少なかれ悪魔の声を聞くことがある。その声に従ってしまうのか、抗して人間として生きる道を進めるのかは、個人の資質もありこそすれ、やはり社会のありようにかかっている部分が大きい。なぜなら個人の資質もある程度は社会の産物だからだ。

 社会のありようとは、経済や雇用の仕組み、競争か平等かといった大きなものから、地域、家庭、友人関係といった身近なものまでを含んでいる。身近な社会も、経済や政治、雇用、福祉といった大きな社会の影響を受けているし、回りまわって個人の生き方にも影響してくるだろう。

 その向かう方向と強度は確率的であり、個人の資質と社会からの強い影響力とがたまたま融合したときに犯罪となって現れる。誰もが思い通り好き勝手に生きることができるわけではない社会では、強度の差こそあれ潜在的Kが少なからず発生せざるをえない面もあるのだが、最近の凶悪犯罪の頻発に見られるように、その顕在化率は社会のありようにかかっているのは間違いない。

 「テロとの戦い」は実はここから始めなければならなかった。それは「環境」、「食糧」、「格差」といった現代の人類が抱える問題のキーワードにも通じる。今からでも始めないと人類も恐竜やレミングと同じ末路をたどることになるかもしれない。

 おしなべて生き物はそうした宿命を負わされているものだが、宇宙のどこかにいるかもしれない他の知恵を与えられた生き物と同様に、人類は、そうした生物的宿命に抗することができるのか、その可能性を試されている。宇宙は人類にその望みを託し、恋しているのかもしれない。
 


海上タクシー舟屋ツアー

2008年06月10日 | 今日の出来事

 ほたる祭りで販売した“銘木”製作者のUさんのお誘いで、丹後半島突端の舟屋で有名な伊根町に「田舎暮らし」メンバー5名で行ってきた。

 国道178号線から右へ登った小高い丘に、舟屋の並ぶ伊根湾を見渡せる「舟屋の里公園」がある。その右へ曲がるT字路にある「兵四楼」というお食事処で昼食。海鮮コース料理は、正直普通だったがハタハタのから揚げは美味かった。ただ、刺身のツマがキャベツだったのはちょっと・・・、これだけでせっかくのコース料理全体が台無しになってしまうことにお気付きではないようだ。
 それでもあえてこのお店をお薦めしたい理由はただ一つ、仲居のお姉さん、はるかさん!。こんなド田舎(失礼)に置いておくのはもったいないような、「ええにょぼ」のモデル(つまり残念ながら人妻)のような素敵な女性だった。思わせぶりに書いておきながら写真がないのが残念。伊根へ行く機会があったらぜひお立ち寄りください。この記事で伝えたいことはもうほとんどそれだけのようなものなのだが、せっかくなのでもう少し。

 Uさんのツレ、海上タクシーの船頭さん、あだぐちさん。変わった苗字だ。気さくな方で、そのヘタウマな伊根湾・舟屋観光ガイドがまたいい味出しておられた。

この方、他にも鯛やハマチ、岩牡蠣の養殖と多角経営されている。

これ、養殖中のアカダイ。しかし最近は、魚がいい値で売れるのも正月くらいと、養殖業も厳しいらしい。

 昔の舟屋は、強度を増すために柱をやや中寄せ、将棋の駒のような形に組んで作られていたそうだ。今も一部に残るその建築様式は海上側からでないと見ることができないし、会場からでもガイドさんから説明がなければ気が付く人はないだろう。せいぜい、「あの舟屋の柱、長年月が経って傾いている」と誤解する程度だろう。
昔の舟屋

今に残る“将棋駒様式”の舟屋(左)。柱が上ほど中寄りなのが、分かります?

戦前は伊根湾でも鯨が獲れたそうだ。これが当時の捕鯨の貴重な写真。


 


フォークアート

2008年06月09日 | おもしろ博物館

 私の目指すチェンソーアートの参考に、機会があったらぜひ一度行って見たいと思っていた、木彫展示館。古民家を改造した館内には、面白い木彫作品がいっぱいで、世の中斜めにしか視ない私にとっては久しぶりに文句なし、期待通りのものであった。

 ここのコンセプトは、“フォークアート”。“芸術(家?)のための芸術”としての彫刻、あるいは現在のチェンソーアートにありがちな定型ものではなく、庶民の暮らし感覚で、日常の「うん、あるある」的な共感を呼ぶふとした瞬間や面白い発想の木彫作品を展示している。私の目指す方向の再確認とともに、大いに新しい刺激を受けることができた。

 こんな田舎(失礼)にこんないいものをプロデュースされた旧養父町の担当者の方に大喝采を送りたい。くだらない箱物作りやイベントばやりの昨今、前回の「ほたるまつり」と並んで村興しのよいお手本だ。ただ一つ、営業・宣伝下手のせいか来館者が少ないのが残念。絶対お薦め。ぜひ皆さん(特に村興しのチエにお悩みのお方)も行ってみて下さい。入館料も大人200円と安い。



幻想のほたる祭り

2008年06月09日 | ログハウス

 6月7日土曜日は定例のログハウス教室の日だったが、今回はお休みして近くの二箇という地域で毎年行われている「ほたる祭り」のお手伝いに行ってきた。

 このイベントでは、ありがちなホタル観賞イベントと異なり、ホタル狩りをした後、最後に参加者全員で同時にホタルを放すのである。いっせいに放たれたホタルが、地面から光の水蒸気のように立ち上る様は、超高速度撮影された宇宙のビッグバンをスローモーションで見ているようで思わず息を呑んでしまう。

  
     (1)            (2)             (3)
(1)ビッグバン直後。
(2)真ん中の明りと人影は、注意を守らず写メのフラッシュをたく心無い人。
(3)ビッグバン後の宇宙のよう。

 一度捕まえたホタルをいっせいに野に帰すという、子供達はもちろん大人にもすばらしい幻想の世界を見せてくれて、同時に小さな虫の命についても考えさせる。やってみれば簡単なことだけれど、なかなか思いつかない素晴らしい演出だ。

 地元のオッちゃん、オバちゃんと都会から来た子供達が、一緒に地元の竹や乾燥させたカラシナを使って伝統的なホタルほうきやホタルかごなどの道具作りをして夜のクライマックスへと気持ちを盛り上げていく。夜のクライマックスまでの間、地元産品の販売や食事、いも掘り、さかな釣り、餅つきなどの行事もある。官製ではない、住民がホストとなって訪問者をもてなす村興しイベントとしても大いに参考になる。

餅つき


わが田舎暮らし応援団も珍木・銘木のお店を出させていただいた。

 せっかくの珍木・銘木も都会からの参加者には使い道を思いつかないのか、なかなか売り上げが伸びず、なんとか盛り上げようと叩き売りオークションもやって、なんとか半分を売り上げた(一生懸命作っていただいたUさん、ごめんなさい)。


Kスタ宮城 トリビア

2008年06月04日 | どうでもいいことだけど...

 ♪OH、OH、OH、OH、はんしんたいがーす、ふれー、ふれーふれーふれー。
今日は勝った。桧山のタイムリー、アニキの一発、KJFで〆。あまりに型通りすぎて面白くない、なんて贅沢な悩み
 一方ノムさんは、ファースト・フェルナンデス、サード・リックの入れ替えなんて??な作戦をやってくれる。ノムさん一流の揺さぶりだったのか、野口はスリーバント失敗。いまだに謎である。

 さて、試合を見てるかニュースを見れば分かる、あえてブログに書くほどのことでもない阪神/楽天の試合を性懲りもなくなぜ書いたのか?
 それはTVに映ったKスタ宮城のダグアウト。なんとベンチに“RECARO”のロゴが。甲子園他のバス停みたいなプラスチックのダグアウトベンチと違って、確かに座り心地よさそうなベンチだった。