WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

不思議な喫茶店?

2021年03月01日 | アート

知人がFBで紹介していたお店?がとても面白そうだったので案内してもらいました。

無光虹(ムコウコウ)

1985年に、とある建築家の方が、おそらく自身の表現作品として建築された後、永らく空き家になっていた建物を、オーストラリアでアーティスティックカフェを営んでおられた現オーナーが、帰国後3年かかってDIYされたそうで、流行の「古民家再生」ならぬ「前衛民家再生」といったところでしょうか?「すむための住めない住居」は、岡本太郎さんの「座ることを拒絶するイス」みたいな、ちょっと突き抜け感のある、とても不思議な空間。
ま、詳しくはHPをご覧になってください。失礼ながらいささか独りよがりな、ちょっと饒舌な解説は、なかなか難解で、なんかよくまだ理解できないけれどパッションは感じました。
昨年夏から開放されているそうで、多方面のアーティストが寄り合って新しい芸術価値の創造を目指す」というコンセプトだと理解しました。


マニュアルエスプレッソマシンで淹れていただいたコーヒーはとても美味しかったです。


飲食の価格が「投げ銭」制というのが面白い。

場所はこちら



ただ、ゲイジツなどとそんな大上段に振りかぶらなくっても、同じようなコンセプトでもっと実用的な物がすでに普及しています。「座ることを拒絶する柵」


なお、駐車場はありません。近くのコインPを利用。
このコインPがまたぶっ飛んでいて、千円札入れたら400円のおつりが10円玉と50円玉だけで出てきました!!!個人的にはこっちの方に大ウケ😄

全部1円玉だったらシャレにならん、ケンカになるし、10円玉と50円玉という、なんとも絶妙なボケのバランス感覚に脱帽!


自然のアートと表現の自由

2019年08月30日 | アート

これは何だと思いますか?

ナスカの地上絵?、どこかの天体表面の写真?、墨で描いた絵?

実はこれ、木の虫食い跡の拓本なんです。”魚拓”ならぬ”木拓”。なんかアーティスティックですね。

実体はこれ。
伐採後、しばらく放置されていた丸太の皮を剥くと、虫食いの跡が現れます。

その一部を拡大してみると、

中央には見事な放射状の線画が描かれています。また、周りにはもう少し太めの川のような虫食い跡がくねくねと四方八方に伸びています。
これらの線描は、大小異なる2種類の虫たちが描いたものと推測されます。

次の画像は、上の写真の虫食い跡がより鮮明に分かるように画像処理ソフトで加工したもの。
まさに”ナスカの地上絵”のような線画と、川か道路網のような造形がよりくっきり浮かび上がって、まさにアート作品のようです。

もう一例、
こちら元の写真。

画像処理ソフトで加工すると、

これらの虫たちの造形を見て何を感じられますか?アート的なものを感じませんか。
でも虫たちはもちろん、アート作品を作ろうとしたわけではありません。単に食欲のままに喰いすすんだ結果です。しかし、人間という生き物は、脳の進化に伴いそこにアーティスティックなものを感じる「感性」を獲得したわけです。ここに、脳がある物体や造形、自然現象を”アート”と認識するメカニズムの原点、ヒントが隠されているような気がします。上の虫たちの造形だけを純粋に見て、とりあえず思いつくのは、私たちは「一定の規則性・法則性」あるいは「特異なカタチ」にアート的な感覚を抱くようです。

 

さて、ここで「表現の自由」問題を考えてみましょう。
虫たちが作るアーティスティックではあるけれど無目的なその作品に、作者の政治的な意思、あるいは鑑賞者の歴史観が加わるとどうなるでしょうか?
時代は1930年代~1940年代、”木”が韓国、中国、旧満州で、虫たちは日本(軍)で、作者は「日本の不当な侵略、女性の性奴隷化(慰安婦)や民衆虐殺」への抗議の意味を込めたのだと主張したらどうなるか。とたんに「慰安婦や虐殺などでっち上げだ」と考えている鑑賞者にとっては実に不愉快な「作品」に転化してしまうでしょう。逆に、「慰安婦や虐殺は事実」と考えている鑑賞者にとっては強い「共感」を抱くのではないでしょうか。


要するに何が言いたいかというと、「単なるモノである作品自体には意思も主張もないのであり、あるのは単純に鑑賞者(=人間のみ)のアーティスティックな感性を刺激するか否かだけで、作品から受け取られる意味はむしろ鑑賞者の思想、歴史観次第だ」ということです。
言い換えれば「作品による表現の自由」とはまさに「作品からの受け取り方の自由」でもある、ということです。その意味で言うと「表現の不自由展」問題は、「慰安婦は無かったと主張する」作品や「天皇は国体の長である」と主張する作品の展示を拒んでいたわけではないという意味において、「表現の自由」は一応保障されていた、と言えます。むしろ「受け取り方の自由」が保障されていたかどうかが問題であって、「『少女像』を見ると不愉快だから展示するな、一方的な展示に公費を使うな」という主張は、自分たちの「受け取り方」以外の「受け取り方」は許さないということで、上の「虫たちアート」の例で言えば、虫たちに「お前の作品は不愉快だからそんな喰い方はするな」と言っているようなもの、虚しいだけです。むしろそうした言い分は戦時思想統制的なまことに危険な考え方と言わざるを得ません。戦時中の思想統制はまさにこの「表現の自由」とともに「受け取り方の自由」もが大きく抑圧されていた時代でした。


カエル展

2019年08月25日 | アート

木津川市でビエンナーレとして開催されている「木津川アート」。
次回は2020年秋の予定ですが、プレイベントとして拠点の「キチキチ」で開かれている「カエル展」を観てきました。

なぜカエルなのか?
昨年まで10年間、プロデューサーとして大会運営を引っ張ってこられた佐藤啓子さんが昨年、逝去されたので追悼も兼ねて佐藤さんのご趣味だったカエルグッズ収集にちなんでの”原点にかえる”意味も込めての開催。

カエルの馬跳び?カエルの指輪です。


ダイオウグソクムシ?カエルには見えんなあ。

一目見て「放射能マーク」!と思いました。

作者の解説(次の画像)を読むといろいろの見方や推測がされていて興味深いです。アート作品とは作者の「表現」の手段であるとともに、「鑑賞者」の頭の中を映し出す「鏡」でもあるのだなと改めて思いました。

愛知トリエンナーレの「表現の不自由展 その後」中止騒動。がこんなところにも反映。
もしこの作品が、広島・長崎や福島で展示されていたら、鑑賞者は何を感じどんな声が上がるのだろうか。


「鳥獣戯画」あたりから始まる日本のマンガの伝統的カエルさん。


作品が置かれたガラステーブルに窓の景色が映りこんで、まるで空中に浮いているような不思議なVR空間が出来上がっていました。


「カエルを被って周りの景色を見てください」とあるので被ってみた。

次の動画のような景色が見れました。

ちょっと分かりずらいけど、確かに天井と床が逆転している。そのわけは?(次の画像に説明)

ピンホールカメラ.。
ところであなたは、鏡に映る像は「左右逆になるけれど、上下は逆にならないのはなぜか?」子供たちにも分かるように説明できますか?

これも光のいたずら。作品の額のガラスに部屋の窓が写りこんでカエルの上を動いている。

今回の出展者、特に女性作家さん
はピンクのカエルがお好みのよう。


本物みたい!近づいてよくよく見ると「刺繍?」でした。スゲー!

カエルカレー。カエル肉は入っていません。


表現の不自由展

2019年08月07日 | アート

愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」が中止に追い込まれたという。 補助金ヒモ付き「芸術」の限界、京アニ事件に悪乗り便乗して脅迫電話をかける卑怯な匿名愉快犯、騒ぎに便乗する瞬間湯沸かし器的ネット民の怖さ、それに乗っかるヘイト首長や政府、日本の現状をいろいろと考えさせられる事件だった。

https://www.asahi.com/articles/ASM833DC1M83OIPE003.html?fbclid=IwAR05aX2ex6uMaZsv4QO_ckyl6buIMfDr29cDCx_OsAWhfKQI7dya_UjpowE

「平和の少女像」展示などに反発する人たちは、作品自体に不快感を覚えているのではないと思う。作者と作者が伝えたかったメッセージに反発している。残念ながら、反発者ご本人はそのことに気づいていない。少女像作者が韓国人で、慰安問題抗議の象徴として掲げられたから反発しているのだ。もし、この像の作者が日本人で、単に民族服の少女の魅力を表現したかっただけだっとしたら、どうだっただろう?同じ像であってもこれほどの反発は起きなかったに違いない。

「「表現の自由」は何をやってもいいというものではない」と反発する向きもある。
確かに血生臭い表現や破壊的なものなど、作品によっては、だれが見てもグロテスクで気持ち悪かったり、いやな気分になるものもある。
でも、そんな悪意を感じさせる表現でなければ、文字で伝える文学や歌唱で伝える音楽ほど、造形作品でものの見方、考え方を伝えるのは容易ではない。生半可な表現では、伝わるメッセージはむしろ観る側の立場、思想やイデオロギーに左右されると思われる。慰安婦像に反発する人たちにとって、あの像はまさに自分自身(とそのイデオロギー)を映し出している「鏡」なのだ。
だからこそ逆に、ゲルニカなどのような、観る者の思想信条にかかわらず作家自身のメッセージを伝えうる、強烈な意思、パワーのある造形作品は少ないし、凄いと思う。

作者が何らかの思いを持って製作したとしても、ただの物体である作品そのものには意思も意図もない。造形作品を通して思いを伝えることができたとすればそれこそ作者の表現の力量によるもので、それはかなり難しい、相当の力量を必要とする。だから大半の作品には「作品解説」を付けることになる。
本来、造形芸術は、解説など付与せずとも作者の思いを伝えられてこそ本物なのではないか。 正直言って私には「平和の少女像(慰安婦像?)」を慰安婦問題への先入観抜きに観て、カワイイとか造形的に優れているとか、いわゆる「芸術的」な印象は全く感じない。ただのマネキン人形風の物体にしか見えない。まあ、それは私の「芸術を見る目?」の問題なのだと言われればそれまでだが。私には「平和の少女像」の横に置かれた無人のイスの意味するところの方がむしろ気になった。

作者の思いを受け止められる鑑賞者もいれば、異なる受け取り方をする鑑賞者もいる、そのせめぎあいの中でこそ、造形芸術という表現形態が成立・完遂するのではないだろうか。そういう意味で、鑑賞者がどのような立ち位置であっても、まずは無機的立場から作品を鑑賞することから始めるべきであり、その後、それぞれが感じたこと、受け取ったことで意見を交わすなりすればよい。それこそが「表現の自由」というものだ。

表現の自由に対する制限として「人を不愉快にするものを展示すべきではない」と主張する向きもある。「アート」だと主張すれば何でもありではないのは当然のことだ。適切な例ではないが、かつての少年Aのような「芸術家」が動物や人間の切断された生身の頭部を「芸術」と称して展示したらどうだろう、ほぼ全員が不快感を感じるに決まっている。それでも中にはごく少数、それも「芸術」だと言い張る変人もいるかもしれないが。

だからこそ物体としての作品を鑑賞する際には、先入観や芸術(アート)というものの自己基準はまず置いておいて、その作品が物体として与える印象がまず「不快」なものかどうかで判断すべきだ。ただのマネキン的少女像自体に、私は全く不快感を感じない。そしてアートの自己基準に照らしてみてもたいして芸術的とも思わない。繰り返すがただのつまらないマネキンにしか見えないのだ。
ただし、仮に作者がこの作品に「戦時に朝鮮人を凌辱した日本人は皆殺しにしろ」というメッセージをこめていたとして、そのことを知ったうえで気持ちよく鑑賞できるかと言えば、それは”否”だ。議論すべきは「そのメッセージに正当性があるかどうか」であり、物体である作品自体に万人に不快感を催させるグロテスク、あるいはバイオレンスなものが無ければ圧力排除すべきではない。

公的税金の使い方についてもよく言われているが、もし誰が見ても「国益を損なうようなイベント」に税金が支出されたのなら、責められるべきは作家ではなく、そのようなイベントに税金を出した国、自治体であり、その責任者(首長、担当閣僚)ではないか。
賛否両論もしくは異論のある問題については、両論、異論を等しく表明する場を保障することは民主主義国家としての公的機関の責務であり、そのために税金が使われることは何ら問題はない。

だから問われるべきは、もし過去に「慰安婦などというものはでっち上げである」「天皇制は日本国存在の礎である」「自国を守るためには自衛隊を憲法に正当に明記、位置付けるべきである」というメッセージのアート作品が、偏った主張だという判定で展示から排除されたケースがあったにもかかわらず、今回の「表現の不自由展」ではそれらの作品はあえて採用せず、反対の主張の作品のみ集めていたのであれば、これは公金支出イベントとしては偏っていると非難されるべきだ。しかしそのような様子はない。もしそのような例があるのなら、「私は過去に、慰安婦が虚偽であることを訴える作品の展示を拒まれたのに、「表現の不自由展」で採用されていないのは不当だ」という作家は名乗り出て抗議すべきだ。しかしそのような動きはない。ということは「表現の不自由展」の公平性は十分担保されており、税金云々は筋違いの非難だ。

いったい今回の事例ではそもそも何が問題なのか。
諸論かまびすしい中で、最も的を射ているのではないかと思われた論評は次の論である。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190807-00057247-jbpressz-soci&fbclid=IwAR3j7rtMM03Ay0-QGufxiU9T4HH9MlaAyEzkC7Ib-lrGRA0TrRjEbYLaFZs

ただ、「アート・芸術はノンポリであるべき」という論点だけは全面的には賛同しかねる。 非政治的純粋芸術?的なものももちろんあるとは思う。だが、現実は残念ながら油断すると気づかないうちにしばしば政治的に利用しようとする者たちの侵襲にさらされることがあり、論者の言うようにその道のプロが慎重さと周到さをもってプロデュースすべきである、という点はその通りだが、 また一方で、アートを政治的メッセージの表現手段とする自由も当然承認されるべきだと思うから。

 

 

 

 

 


井波彫刻総合会館

2019年07月22日 | アート

富山県南砺市にある井波彫刻総合会館に行ってきました。

 江戸時代、大工の仕事から派生、欄間彫刻などから発展した木彫の本場、圧倒される作品群に気持ちが萎えそうになると同時に、もっと頑張って精進しなはれという励ましももらいました。

 

食堂の白エビ天丼がとても美味しかったです。


木津川アート

2018年11月10日 | アート

木津川市で2年ごとに開催の「木津川アート」を鑑賞ツアーに参加して観てきました。ツアーは弁当付き1,500円。オリジナルタオルや缶バッジなどのおまけつきでお得感あり。弁当もおかずが野菜中心で多種類。弁当の定番フライが無いのでヘルシー。

毎回、木津川市内の特定地域を選んで開催されるのですが、今回は平安京の前にほんの一時期だけ置かれていた都、恭仁京のあった旧加茂町瓶原(みかのはら)地区で開催されています(11/18まで)。

瓶原は日本の原風景的な田園風景が残る農村地帯。ガスはプロパン、下水道未設置。


茶畑の折りたたまれた寒冷紗はオブジェ作品のようです。

展示会場は神社や空地、田んぼ、一般民家、倉庫、商店などなど。
案内所そばの恭仁京跡地。

案内所を出発。まずは恭仁神社へ向かいます。

恭仁神社では3人(組)の作家さんの作品が展示されています。

夜になるとライトアップされて変身。実際は光の色も変わりそれにつれて作品の雰囲気も変化する。

おみくじが置いてあります。これを赤い糸に結ぶのも鑑賞者参加のアート造りの一環なのだそうです。

吉でした。

こちらは高校生グループの作品。

銀色の部分は鏡面。周りの景色が映って面白い。


とある旧家展示場にて。右端の女性は木津川市長さん。

家の軒先に掛けてあったトビ。昔は林業もされていたのでしょうか。それとも火消し?

おくどさんも展示場。

こちらの旧家では、あちこちに流木などが飾ってありました。過去の主はかなりの趣味人だったようです。

黒柿

南天の実を数珠つなぎにして作られた展示作品

南天の実。これを何万個つなげたんだろう!その根気に脱帽。

一般民家(居住中)にて。
干し柿

石の信楽狸

土塀に沿って長く伸ばした松の枝。ここまで伸ばすには2~3世代はかかったでしょう。

ボランティアのお姉さん(関大生)

ちゃっかり一緒に撮ってもらいました^^;

夜の部ナイトツアー。より幻想的。


法然院

2018年06月21日 | アート

知人のアーティストKさんの個展を見に法然院へ行ってきました。

展示は法然院の講堂。不思議な空間でした。

法然院の境内で「キヌガサタケ」を見つけました。
準絶滅危惧種で、発生から消滅まで1日という儚いキノコなのでなかなか見られません。

法然院は外国人の方がいっぱい。でも伏見稲荷などのように中国、台湾、韓国系ではなく欧米系の方が多い。
「わび・さび」「幽玄」の世界は欧米人の方に人気のようです。

法然院前には「法然院森のセンター」という施設があります。ここを拠点に自然観察会などのイベントが行われていますが、センターはお土産屋さんのよう。


自然が生み出すアート

2018年06月03日 | アート

今日は小町手づくり市の日ですが、町内の夏祭りに向けた公園清掃の日と重なってしまいました。
公園清掃は第一日曜日に組まれることがほとんどで毎年、手づくり市と重なってしまいます。ここ数年は手作り市を優先していましたが、地域のお付き合いも大事なので今回は公園清掃を優先しました。

木の影がまるで花火のようでとってもアート!自然の造形にはいつも驚かされます。

子供たちもお手伝い頑張りました。

公園清掃は午前中で終了したので、午後は手づくり市へお客さんで行ってきました。
お仲間の「こだわりパンのアリカ」さんの「メランジェ」というパンを買いたかったのですが、残念ながら午前中で売り切れてしまっていました。


刀剣乱舞?

2018年03月05日 | アート

北野天満宮の絵馬殿を見に行ってきました。なんで絵馬殿を見に行ったのかは、話が長くなるので改めて書かせていただくことにしますが、ちょうど宝物殿の一般公開、宝刀展も行われていました。重文を含む所蔵刀剣類約40振りが展示されていました。


刀剣という、どう考えてもオヤジしか見に来なさそうな渋さの極致のような展覧会に、アニメに出てくるようなイケメン主人公たちが看板などいたるところに表示されていて、若い女の子がわんさか入場していくのです。


「鬼切丸」という刀剣にも興味はあったのですが、その奇異な現象に大いに好奇心をくすぐられ見学してきました。

ちなみに、「鬼切丸」は平安時代に、源満仲が伯耆国(今の鳥取県中西部)の刀工安綱に作らせたと伝えられている刀です。一条戻橋で、渡辺綱が鬼女を切ったという言い伝えから鬼切(鬼切丸)と言われるようになりました。また別名「髭切」とも言われ、その由来は罪人を試し切りした際に髭までも切れた事によると言われています。明治時代には国宝に指定されていましたが、戦後の文化財保護法改正の際、重要文化財(重文)に格下げ?されてしまいました。その理由までは分かりません。刀にまつわる伝承話が荒唐無稽であるためでしょうか?

実は、「鬼切丸」と名付けられた刀は兵庫県川西市の多田神社にも存在し(下の図)、どちらも安綱作と伝えられています。伝説にしろ鬼女を切った「鬼切丸」は1振りしか存在しないはずですが...、さて真偽のほどは。

その他の展示品の一部。

なんともFATな小刀。

こんなのも。


さて、なぜ若い女の子(刀剣女子?)が大挙して押し寄せていたのか?
その心は、「刀剣乱舞」というマンガ・アニメとゲームにありました。これらは、銘刀たちの化身であるイケメン男子たちが活躍するというものです。はァ~、知らんかった~。28になるうちのムスメも知りませんでした(すでにオバサンということ??)


ま、「刀剣乱舞」はさておき、宝刀公開展はなかなか見ごたえあります。銘刀はもちろん、刀剣女子の生態にご興味のある方はぜひ。
3月31日まで。北野天満宮 宝物殿にて開催。大人500円(宝物殿のみ入場の場合)


こだまちゃん、入選

2015年09月16日 | アート

「木彫フォークアート大屋」 (9月18日-10月4日 養父市おおやホール)に出展した「木霊」が入選のお知らせが届きました

予想通り入賞には届きませんでしたが入選できただけでも良かったです。
また頑張る励みになります。鑑賞に行ったら様子をレポートします。

大屋町は養父市街から大屋川をさらにさかのぼった山奥の町です。昔は林業で栄えた
過疎の町の町興しから始まった木彫展も今年で22回目。メジャーな美術展にはないほのぼのとした民衆芸術的な作品の数々が魅力です。
遠いですがもし機会がありましたらぜひお立ち寄りください。


アフリカ美術館

2015年08月27日 | アート

八ヶ岳周辺には数多くの美術館がありますが、小淵沢のクラフト市に行ったときに隣の長坂町で面白い美術館を見つけました。

アフリカ美術館


私達日本人は日本や西洋、中国や朝鮮の芸術には比較的よく親しんでいるのですが、アフリカ、北米先住民や中南米、東南アジアの芸術にはあまり触れる機会がありません。しかし、これらの地域には日本や西洋にはない独特の魅力的な芸術文化が脈々としてあるのです。

アフリカの芸術は欧州ではわりとポピュラーで公共施設や愛好家の家庭などにはわりと普通に飾られているらしいです。植民地からの略奪という負の歴史の現れであるといえなくもないのですが。

欧州を旅したときにそんな情況を目の当たりにして衝撃を受けた館長の方が、自力でアフリカ系や南太平洋の島国(ポリネシア、ミクロネシアなどなど)の美術品を蒐集し、2010年に個人でこの美術館を開設されたとのこと。その行動力にはまこと敬服いたしました。

滋賀のMIHOミュージアムや静岡のMOA美術館など、新興宗教団体が信者から巻き上げた金にあかせて世界中から美術品を買いあさって立派な美術館を作った例はありますが、普通の一般人(といっても美術関係の仕事をされてはいたそうですが)がこのような美術館を創設するのは大変なことだと思います。

詳しくは当館のHPでご覧いただきたいと思いますが、目録から個人的に面白いと思った所蔵品の一部を紹介いたします。いずれにしても八ヶ岳方面へ行かれる機会がありましたら一見の価値大いにありで、ぜひお勧めいたします。

面。
アフリカ芸術の真髄は、慶事や弔事の舞踊、信仰と呪術など様々な場面で活躍する面にあるといっても過言ではありません。
アフリカでは母系信仰が多い。また、精霊を具現化した独特の面も。

日本の能面のように、見る方向で表情が変化する面。

首の像に立像。
写実的なものから、西洋や東洋にもない独特の感性のデフォルメまで。
ブッチャー?              アフリカのレーニン?
 
山ちゃん似の...          タイソン・ゲイまたはテリー伊藤?
 


約30年ぶりの再会

2013年09月11日 | アート

もう30年以上前になりますが、1年ほど彫刻を習っていたことがありました。
その同窓のSさんが京都で開かれる「彫刻5人展」に出展されると案内をいただいたので見に行ってきました。

Sさんは現在、郷里の北海道で身近な方々をモデルに製作されています。
左右の作品はてっきりブロンズかと思ったらFRPだそうです。軽くてコストも安いのでこちらを使っているのだとか。それにしてもずっと人物を追求されている一貫した製作態度には感服でした。


驚異の“クリオネ人形”

2011年01月10日 | アート

木津川アートでなぜか心にとまったクリオネ人形。
何がそんなに気になるのか、はっきりせずモヤモヤしていましたが、ようやく分かりました。

一体だけだと何の変哲もないただの陶人形。しかしこれを複数組み合わせると、驚いたことにいろいろな表情や場とその空気を作り出してくれるのです。例えば、

このように二体並べてみると、何か二人で話をしているようです。さてどんな話をしているのか。

これが配置と見る角度によって口ゲンカしているように見えたり、一人がもう一人を慰めているように見えたり、...。
また集団になると、お笑い芸人さんのコントだったり、ロンドだったり、北朝鮮の軍隊の行進だったり、バレーボールの試合開始前の「ファイトー!」の輪だったり、野球の乱闘シーン、町の雑踏...。

人形単体はまったく無表情で、右手を下げぎみ左手を上げぎみに少しうつむき加減に顔をひねったシンプルなデザイン。しかしそれが複数組み合わさったときに絶妙な多様性を生みだす、デザインの妙。
このすごい人形は、なんとあの百均で売られていると聞いて二度ビックリでした。

それではそのデザインの妙をスライドショーでお楽しみください。
スライドショー以外にも多くの表現が可能なはず。演出効果の検討にも使えそう。


木津川アートから --印象に残った作品--

2010年11月16日 | アート

私達がお店を出していた鹿背山エリアから。

里山の林の中に、ひっそりとまるで鏡のような小さな池、落ち葉舞う空中に浮遊するイスたち。なんとも不思議な光景ですが...。

実はこれらの写真は、実際の作品(インスタレーション)の写真を上下反転させた画像です。写真の上部は池に映った鏡像。下部が実在の景色。
反転前の写真は上の画像をクリックすると見られます。

反転させても、いや反転させることによって現実以上に成立して出現する幻想の世界。作者の意図するところは違っていたと思いますが、私にとっては不思議で新鮮な発見でした。

妙に魅かれたクリオネ風の森の精?たち。実際の作品は右図のように林を広く使って、毛糸や旗?、木片、人形など様々な素材をデコレーションしたインスタレーションだったのですが、なぜかその一部、森のクリオネたちが心に残りました。

その他では八木邸から。
デジカメ写真では再現できなかったのが残念ですが、ほの暗い蔵の中に銀河系のような世界が現れていました。アルミニウムの板や球の表面に配された無数の小さな凹み(たぶんポンチで打った)、光が当たるとまるで外から宇宙を見ているような錯覚におちいりそうでした。