香雪園という名は,大正期に来函した京都の浄土宗知恩院の貫主に「雪の中に梅香る園」という意味で名付けられたとされています。
知り合いに香雪園で毎日エゾリスを撮影されている方がいます
おかげさまでエゾリスの姿をたくさん撮影でき
エゾリスは、2~3月と5~7月頃と年に2回妊娠し、妊娠期間は約40日程と短く、
ふつうは3~4子を出産する。野生での寿命は4~5年のようです。
公園には20匹ほどのリスがいますが、子リスは、カラスやネコに狙われ生き残るのは1~2匹
一年ほど成長すると名前をフー子、ポン太と知人は読んでますが、私には同じに見えます。
また、全国的にみても撮影できる鳥類の種類の多さが十本の指に入るそうです
オオアカゲラ
ハイタカ
コゲラ
モズ
そんな香雪園の歴史は
見晴公園内の香雪園は、函館市の素封家岩船峯次郎氏が、明治31年頃から造成した本格的「風景式庭園」で,岩船家の別荘として使われていました。
岩船氏は,商売繁盛の恩返しのため公衆トイレや芝生広場をつくり,昭和2年から市民に無料開放しました。
昭和30年には,市と岩船家の間で無償賃借契約を締結し,隣接するゴルフ場を含め「見晴公園」として都市計画決定され,同34年には市が岩船氏所有の土地を買収し,その後数次の都市計画変更を経て函館市最大の総合公園となりました。
岩船修三は、明治31年、函館随一の繁盛をほこった岩船呉服店の三男として生まれ、
洋画家の青山熊治に師事し、絵の道に進むことを反対していた父からも認められます。
1930(昭和5)年には帝展に初入選。
1936年から、フランスに留学し、ピカソやマティス、藤田嗣治らの知遇を得ます。
しかし、戦争激化のため1939年にやむなく帰国。その後、光風会展を舞台に活動しました。
独特の色彩感覚を生かした詩情あふれる画風を確立し、
1960年代後半から取り組んだアイヌの人々や神話をモティーフにした作品は、多くの人に愛されました
徳のある商いをする人から、精霊を詠う画家
眼に見えぬ想いから豊かな香雪園が産まれるように想えます
眼に見えぬ想いからその地に産まれる物がある
遺跡の風景にも眼に見えぬ想いが現れるような
公園を中央に整地し列石を配し、住居も太陽の昇る方角に配した舘野縄文遺跡
その海岸から撮影した風景