道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

遊びの能力

2021年11月04日 | 人文考察
                
人類の先祖は、遊びの得意な類人猿だったのだろう。遊ぶ猿は道具を作り道具を使い、火を起こすという画期的な進化を遂げた。

今日私たちがごく当たり前に使っているプライヤーやペンチ、スパナ・レンチなど、メカニズムを具えた多種多様な手工具の発明には、瞠目せざるを得ない。それが機械の発明を促し、工業の発展を招く要因だったと思う。
科学・技術の領域のあらゆる発明・発見に長じていたのが、欧米人であることに異論は出ないだろう。その彼らは、遊びの発明でも天分を発揮してきた。

各種球技をはじめスキー・スノボー・スケート・スケボー・サーフィン・パラグライダー・スキューバダイビングなど、欧米人の発想による遊び事・スポーツは挙げきれない

道具の発明と遊びごとの発明には、共通する能力的な素地が存在するのだろう。遊びもまた創造性に因るからである。

障害に直面した時、直ぐに解決策を講じるフットワークの軽快さにも、天賦の才と、それを妨げない社会の存在が感じられる。近代機械文明と電気・電子文明は、彼らの生得の能力の行き着いた成果だとつくづく思う。

これら文明の発展には、技術の独占よりも、それを開示して普及に期待をかける、彼らならではの気質の存在が推察される。
不断の創意工夫と其処から生まれた技術やノウハウの開放は、伝統を守り一子相伝・門外不出の技術技能を磨き上げる我が国文化の閉鎖性と対照的である。

剣術も茶華道も日本舞踊も、盛んに流儀を設けて流派を競い、段位と免状をもって閉鎖的な集団を形成する。日本の文化や芸術の在り方は、西欧文化と較べると、180°の違いがある。

少なくとも明治以降に、我が国が西欧の近代文明をあれだけ短期間のうちに修得できたのは、我の側の能力・意欲・努力もあろうが、ひとえに彼の側の技術の開示とノウハウの開放に負うところが大きかったと理解している。

仮に西欧の近代文明が漢民族の手によってもたらされたものであったなら、日本の近代化は、もっと遅滞していたことだろう。

遊び心の先天的欠落は、中韓日において顕著である。これらの国々は、遊び心を摘み取る文化的体質を共有しているように見える。
遊びの発明はからっきしダメだが、発明された遊びに関わる機器を製造する能力では、これら3国は天分を発揮している。洵に「天は二物を与えず」とは至言である。

何事もシャカリキに、がむしゃらになって頑張る習性は3国に共通している。中でも我が国が優等生であろう。思考停止状態になるまで頑張らないと、本物でないとする見方が、ムリにムリを重ねる。結果は完徹か破滅、all or nothingである。

頑張って遮ニ無ニ事を成し遂げることと、巧みに事を成し遂げることとは、結果は同じであっても過程が違う。過程の違い、効率性に目を向ける時が来ているのではないか?何事も生産性の高低が大切である。





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