道々の枝折

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自己愛

2020年08月10日 | 随想
キリスト教とわれわれ日本人とは、異様なほどに親和性が低い。2018年の宗教年鑑によると、日本の全宗教団体の総信者数に占めるキリスト教系信者の割合は1.1%だった。

1549年の教伝から数えて470年、幾多の抑圧・禁令があったにもせよ、信教の自由が憲法で保障されるようなって73年後でこの有様は、民族の心性がキリスト教に馴染まないことを証明するものだろう。

キリスト教系大学の隆盛を始め、全国各地の中高ミッションスクールが、確固たる支持と評価を得ているのに、大本の教勢が振るわないのは、どういうことだろう。キリスト教の伸長を望まない教育行政の影響もあるが、根本は、国民一般の実利的な良いとこどり気質と、八百万の神を信ずる宗教的無関心の相乗作用が大きく影響していると思う。

キリスト教徒ではないので、誤った理解をしているかもしれないが、キリスト教が世界宗教のうちで最も信頼されている理由は、布教の成果や信者の数に因るものでなく、「愛は与えられるものでなく与えるものである」とイエス・キリストが説いた「愛の本質」に、同意する人々が多いことに拠るのではないかと考える。

キリスト教を信奉する人々が、実行はともかく与える愛を実践することに価値を見出していることは、大きな意義がある。それは人類の道義の理想である。キリストは、人の自己愛に発するそれまでの愛の観念を変えた。他人愛にこれほど積極的であることは、他の宗教に例を見ない。いずれも信仰の実践において、自己愛に発する欲念を脱却し切っているとは言い難い。他宗教の信者が、彼らの神から与えられる愛を願う程度が強ければ強いほど、その宗教は現世利益を追い求めることに肯定的になり、ご利益宗教に近づく。

人間が生まれつきもっている自己愛は「与えられる」愛を希求する。日本人の場合、「神の加護」「仏の慈悲」などと言葉はいろいろあるが、全て自分への神仏の愛を求める謂である。神仏に愛されることを願い、神仏からの愛を希求している。神と個人との愛が、反対給付を前提に成り立っているのだ。常に自己愛に依拠している。キリスト教においても、そのような人々は、イエス・キリストによって度々指弾されている。

愛を「与えるもの」と認識するなら、愛に見返りは求めない。愛を与えた結果を顧慮しない。そこには、不毛の愛という言葉はない。愛することで完結し満足する。不毛を厭わない強い愛こそ、おそらくキリストの理想とした愛なのだろう。

そうは言っても、そこは生身の人間、イエスの精神の高みに達することは、キリスト教徒と雖も容易なことではないだろう。新訳聖書の記述には、使徒など宗教者を始めとする教徒の、自己愛に基づく行動が包み隠さず数多く記されている。そこには、絶対神の眼を常に意識し、イエスへの背信を懼れる心理が常に働いているのだろう。

私たちはどこまで行っても、自己愛を捨てられない。自己保存欲求から逃れられない。自己愛を捨てるのは、ある意味人でなくなることである。自己愛と他者愛の中間をとる中庸と称する態度が、日本では昔から適切とされてきたが、中庸は古代中国人が考えた荒唐無稽で実現不能な観念だ。一見正論のようでいて、真の中庸など、人間には、到底叶うはずがない。古代中国人の自己過信には、ただ呆れる外はない。

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