人は何をやるにも独創(Originality)が大切だ。本人の心から生まれた創意に頭が働きかけて工夫が生まれる。それにその人固有の思索や考察が加わる。それが独創なればこそ他の人に影響を与え、興味を呼び共感の輪が拡がる。何事も独創は成功の要件である。それはモノマネでは決して得られない、仕事の喜びに繋がっている。
全ての人に独創の能力は備わっているが、それを発揮できるかどうかは、意欲の高低の問題である。模倣を潔しとしない矜持が、意欲を高めるのではないかと思う。
模倣によって事を成し、労力が省けたと悦んでいては、仕事の喜びは得られない。産みの苦しみを省いては、真の歓びを自分のものにできない。
独創というと大それたもののように受け止められ勝ちだが、ごくありふれたモノやコトでも、本人の創意工夫のあるなしで、結果に大きな違いが出る。
文芸などの分野でも、原典があってそれに鼓舞され書かれたものは、読む人の感動を呼ばない。文章がどれだけ優れていても、純粋にその人の頭の中から湧き出たものでないと、読者の感動を呼び起こすには至らない。また、どれだけ多くの文献を渉猟しようとも、書く段になって発想の泉が涸れていては、読み手の共感を得られないだろう。
漢字文化圏の国民の最大の弱点は、習うことに巧みであることである。習うことは倣うことであり、文化の基盤が習う=倣うで成り立っている。
漢字は、手本に寸分違わず忠実に文字を書く練習を重ねなければ、他人が読める文字が書けるようにならないし、自らも覚えられない。小学校の6年間の書取り学習はこれに充てられる。それだけの期間をトレーニングしないと、膨大な表意文字(漢字)を憶えられないし、遣えるようにならない。これは表意文字の宿命であって、漢字文化圏は永くこのハンディを背負って来た。他方観念・思想を伝えるにこれほど便利な文字も無い。
欧米人のアルファベットの筆記体は各人各様、同じ文字とは思えないほどの違いがある。表音文字は幼児でも容易に単語をつくることができ、書き表すことができる。
漢字と違って、文字を書くことに大きなエネルギーを費やさないことは、発想と文章との間のギャップを狭め、文章表現の上での簡便性を高めることこの上ない。
日本の表音文字平仮名も同様で、各人各様の書体には独特の流麗さが表れ、平易にことを伝える文章づくりが可能である。
一方、漢字仮名交じり文での文章づくりは、常に適切な漢字選択と送りがなの問題から逃れられず、作業は複雑化する。
書く文字に忠実な模倣を必要とする文化と、任意の独創が許される文化とでは、長い年月の間に精神の自由度に大きな差異が生じるに違いない。
(習う=倣う)(学ぶ=真似ぶ)が重きを占める文化は、独創を嫌い時にはそれを異端視する傾向がある。そこでは模倣は難じられることなく、むしろ奨励されることすらある。その結果、人々の独創への意欲は退行し、新規開発のエネルギーが高まらない。
漢字front-end processorの出現は、漢字文化圏から3000年以上に及ぶ漢字筆記の軛を解き放った。漢字にどっぷり浸かって漢字筆記に拘束されていた私たちも、漢字を手書きしなくなって、どれだけの解放感を得ていることか、存外意識していない。
現下の中国の大躍進の裏に、漢字ワープロの普及があったと見ることは、的外れではないだろう。漢字筆記に付随する諸々の拘束の解放効果は絶大なものがあったと考えられる。
面倒くさがり屋で筆不精の私が、こうして気軽にブログ記事を投稿できるようになったのも、漢字筆記の煩わしさから解放されたことに因ると理解している。
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