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道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

異質の人

2022年12月02日 | 人文考察
昔話になるが、かつてフーテンの寅さんの映画「男はつらいよ」がシリーズ化され、渥美清演ずる「寅さん」は国民的キャラクタとなり、東京葛飾区柴又商店街の街並みや、柴又帝釈天日蓮宗題経寺が一躍有名観光地になった頃のこと。

寅さんが行商の途上で訪れる全国津々浦々のロケ地の情景や準主役のマドンナたち、芸達者な脇役たちの演技もこの映画の大きな魅力で、興行的には大成功していた。渥美清あっての「寅さん」だった。

そんな状況の中で、やつがれは昭和の日本人の大多数、7割くらいは「寅さん」に親しみを覚え、「矢切の渡し」を控えた「柴又帝釈天」もその参詣道の街並みも、全国区の揺るがぬ名所になったとばかり思っていた。

ところが、世の中は広い。その「寅さん」の行動・言動を全く理解できず、自分の中に寅さんに共感するものが毫も無いと言い切る人が居て驚いた。
「観てもさっぱり面白くない」「出演者のキャラクタに感情移入できない」「情景に感動するものがない」と宣う。無い無い尽くしである。
育った環境が凡俗と相容れないかったか、理解できる知性はあっても、情操的な面で共感性が乏しいのかもしれない。庶民的な生活に共感を示すことを敢えて忌避していたのかもしれない。

山田洋次監督の作品にある、階級観念のマンネリや、寅さんとマドンナとの交情の在り方がワンパターンだと嫌う人は「寅さん」ファンの中にもかなりの割合で居るが、そういう理論的なものでも無さそうだ。
要は登場人物の感情が①よくわからない②共感するものがない、ということに尽きるのだった。庶民感覚が希薄と結論するしかなかった。
共感性と謂うものは、体験を共有することで出来上がる。体験の共有が乏しいことは互いの人間理解の妨げになる。

私たちは、寅さんの言動や行動だけでなく、それらの中に、自分の情動と同じものが存在していることに気づかされ、それを可笑しがり共感する。山田監督の笑いの狙いは、キミマロが笑いを獲るそれと同じ性質の、観客に自分の滑稽さを気付かせるものである。「寅さん」の滑稽のみを笑っているのではない。私たちはあの映画の寅さんの中に自分を見出して笑っているのである。ユーモアの要件のひとつに、自分を笑うことがある。自分を笑えない真面目な人は、この国に存外多いものである。

共感性の有無は、sympathyにせよempathyにせよ、人を理解する上で実に大切なものである。寅さんだけを笑っている人は、山田洋次監督の脚本・演出の企図の半分しか楽しんでいないということになるのではないかと思う。まして「寅さん」を笑えないとなると「取りつく島がない」という情況で、どこに共感性を見出せば好いのか甚だ面喰らう。







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