道々の枝折

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松浦鉄道

2019年06月18日 | 旅・行楽
九州周回の旅を企画したのは妻だが、その旅程に松浦鉄道への乗車を是非にと加えたのは私だった。古く邪馬台国の時代は魏志倭人伝に記された末盧国、その後の中世には松浦党の本拠であった風土に触れてみたい念いが強くあったからだ。
 
前夜伊万里に泊まり、翌朝気動車に乗った。伊万里から松浦までは海が見えているが、中間のたびら平戸口駅から平戸駅間は、線路が海から離れ丘陵の間を走る。
MR-500というレトロな車両は、旅人
に憩いを与えてくれた。
松浦鉄道は、佐賀県有田町と長崎県佐世保市を結んでいる。路線は起点有田駅から伊万里駅、松浦駅、たびら平戸口駅を経て終点佐世保駅まで、北松浦半島を各駅停車で巡る。

半島というものは、丘陵や山地が海に落ち込んでいる地勢だから何処の半島も共通して平地は少なく耕地は乏しい。東・中・西に田平の名を付す3つの駅名が、この半島の耕作適地の希少性を物語っている。
 
中核駅のたびら平戸口駅で下車して先ず平戸城を目指した。交番の若い警官の懇切な指導で、取り敢えずバスで平戸城へ行った。
 
平戸城は平戸島の北端の崖上に在った。秀吉の朝鮮の役で武功を挙げた松浦鎮信(まつうらしげのぶ)によって、安土桃山時代に築かれたという。鎮信は関ヶ原の合戦では東軍に与して家康の信任を得、平戸藩の初代藩主となった。
 
模擬天守は平戸の瀬戸から北松浦半島、玄界灘を一望でき、理想的な展望台だ。眼下には平戸の市街地が広がる。
松浦の歴史は古い。そもそも松浦の
地は、3世紀中頃の魏志倭人伝に記述がある末盧国(まつろこく/まつらこく)にあたり、その領域は、平戸島から東松浦半島にまで及んでいたと見られている。
 
平安時代には水軍即ち海賊として中央に知られ、源平合戦では当初平家の側だったが、壇ノ浦の海戦では源氏側に与して勝利に貢献した。臨機応変、機を見るに敏な水軍の本質が遺憾なく発揮され、鎌倉幕府の御家人に成る。元寇における果敢な舟戦(いくさ)は、甚大な住民の損害を補って余りある活躍だった。

平野に恵まれず、海に活路を求める
しかない松浦の地の人々の暮らしが、平野稲作米の統制経済を基盤とする日本の多くの地域とは異なる社会をつくりあげたと見る。古代以来の朝鮮半島との交易、秀でた操船・航海技術、剽悍な戦闘力が海商的な経済を基盤とする氏族共同体をつくりあげた。松浦党とは、まさにこの風土が育てあげた血縁の結社であったのだろう。

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