道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

唐津での恩恵

2019年06月22日 | 旅・行楽
佐賀県唐津の駅に初めて降り立った。観光案内所の受付の女性が懇切に要所を教えてくれたので、街に一歩踏み出した時には初めての土地での不要領を感じないで済んだ。先ずはバスで唐津城へ向かう。
 
知らない土地で案内マップを頼りに歩くのは楽しい。目標物を見つけ出した時に安堵を感じるからだろう。
 
妻は地図を見る煩わしさが嫌いで、すぐ人に道を聴く。現実主義で人見知りしない質だから、道迷いや回り道するよりも手っ取り早く地元の人に聞く。道迷い大好き人間の亭主の選ぶ道は辿らないと決めている。失敗するのを経験しているからだろう。
 
晴天の下、ニノ丸で明媚な唐津湾の風光をバックに写真を撮っていたら、同年輩のご夫婦連れが、カメラのシャッターを押してくれた。首都圏から空路九州に入ったご夫妻は、ご主人がこの唐津市の出身で、その日は定例の墓参のついでに城に立ち寄ったのだった。夫人は唐津城からの景色には慣れっ子と笑っていた。

そのご夫婦から、此処よりも一段と勝れた眺望の山が虹の松原の先にあるので、其処へ案内しようとお誘いいただいた。望外のご厚意に甘え、車に同乗させていただき、虹の松原を通り抜けてその景勝地「鏡山」に向かった。
 
海抜284mの鏡山、別名領巾振山(ひふりやま)は、火山性の山らしく、ユニークな形をしていた。山頂部は平坦、遠くから見ると、丁度唐津湾に浮かぶ高島のように、台形に見えるらしい。中央に噴火口の跡といわれる池があり、外周は遊歩道になっている。駐車場は広く売店もあり、内外からの観光客が大勢いた。
 
最高地点の展望台まで行くと、一大パノラマの絶景が広がっていた。湾内の高島ほか2つの島の先は玄界灘。先ほど登った唐津城の天守閣が、松浦川の河口に小さく見えていた。眼下の田園地帯は虹の松原と接している。

鏡山の名は、新羅征討で有名な神功
 皇后(息長帯比売命オキナガタラシヒメノミコト)が山頂に鏡を祀り、戦勝を祈願した言い伝えに由るという。まだ神体山信仰の時代だったから史実に近いかもしれない。更にこの山の別名領巾振山(ひれふりやま)には、ロマンチックな言い伝えがあった。
 
6世紀の古墳時代、宣化・欽明両天皇
に仕えた将軍大伴狭手彦(大伴金村の三男)が朝鮮半島に遠征する準備のため、唐津の湊の長者の館に滞在した。その長者の娘で狭手彦の身の回りの世話をしたのが佐用姫(さよひめ)。恋に落ちたふたりに訣れの時が来る。恋人の率いる船団をこの山から見送った松浦佐用姫(まつらさよひめ)は、領巾(肩にかける薄地の長いショールのようなもの)を振って別れを惜しんだという。
 
若い恋人同士の別れのシーンは、この絶景の地にこそ相応しい。見る者は涙無くして傍観できなかっただろう。後代の万葉歌人山上憶良(筑前国守)も大伴家持(太宰帥)も、それぞれ一首を寄せている。
 
余談になるが、江戸時代安定期の唐
津藩には、珍しい殿様が出現した。四代目藩主水野忠邦は文化14年、幕閣の要職に就くことを強く望み、家臣の諫言、領民の反対を押し切り、所領を減らしてまで遠江浜松藩への転封を実現させた。私の住む浜松の旧藩主に水野忠邦が居たことは知っていたが、転封前の領地が唐津とは露知らなかった。浜松での忠邦の事績に特筆するものはない。忠邦にとっての浜松は、幕閣へ昇る一ステップでしかなかったのだろう。
 
その後は願いどおり順調に栄進して老中職に昇り詰め、天保の改革を断行するが成功せず政治的に失脚、山形藩へ左遷転封となった。その際、浜松の領民からの債務を清算せずに山形へ移ろうとして、一揆を招いている。
 
比類なく恵まれた生誕の城地の風光を捨て、忠臣の諫言を振り切ってまで徳川幕閣での栄達に邁進した挙句の左遷、晩年失意の忠邦の脳裡に映じていたのは、唐津城からの明媚な風光ではなかったか?

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