道々の枝折

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民主主義の目的

2022年01月07日 | 人文考察
人間は物を蓄える動物である。人類は農耕を知って初めて、穀物を保存することで富の蓄積を覚え、それを人生の目的とするようになった。

「資本主義」は、人類の社会に富が現れ、富を拡大再生産する様々な方法を次々に発見し開発した結果成立した、人間の本性に由来するイデオロギーである

「自由主義」はその始め、資本の無制限な活動と増殖の自由すなわち王侯貴族など特権支配者たちの自由を保障するものだった。
近世になって、欧州に商工業を基盤とする市民社会が成立すると、キリスト教の教理の影響により、既存権威と資本の恣意性から市民の自由と権利を守る考えが生じ、武力による革命を経て現代の自由主義が整備された。自由主義もまた、人間の本性に由来するイデオロギーである

これに対して「民主主義」は、人間の本能的欲求から発生したイデオロギーではない人は民主の意識を具えて生まれては来ない

民主という概念は、支配権力に優越するキリスト教の神の絶対性が確信されて初めて生まれた。唯一絶対の神の下ではしか存在せず、支配者の王・貴族も被支配者の民衆も、神との関係では同等・同質・同格の人であると考える。つまり、キリスト教の神の存在が、民主主義成立の基盤となって「キリスト教的民主主義」が生まれた。

一方で貨幣は、権力者が人民を支配するツールである。資本の支配により生じる非人間的要求から人々の権利と自由を守る目的で「社会的民主主義」が生まれた。

キリスト教の基盤をもたない民主主義というものは、教条的形式主義であって人間のエゴイズムを克服できない神の前の平等が認識されなければ、血の通った真の民主主義にはならない。キリスト教の信仰を缺く国々の民主主義は、「擬制の民主主義」というべき性質のものである。

工業社会の産業資本主義にとって、労働力と消費は、絶対に必要な生産要素である。
資本主義は、労働者と消費者を安定して確保するために、民主主義と協調する必要がある。敗戦によって日本に導入された民主主義は、この目的を主眼としていた。西欧のキリスト教から生まれた民主主義から見れば、出自の異なる民主主義である。

近代の諸国家は、産業資本主義の下における①労働力の安定的な供給と②消費市場の拡大のために、民主主義を採用している。
イデオロギーの本末を問うなら、資本主義がで、自由主義が、民主主義がということである。
新興国家で独裁政権が倒れて後、リベラル派が民主主義を本に据えると、本末が転倒して国家運営が立ち行かなくなってしまうことが多い。

資本主義国家の国民の自由は、資本の増殖、消費の拡大を妨げない範囲での自由であって、それを保障する制度が現代の民主主義である。

「共産主義・社会主義」もまた、人間の本性から導かれた原理ではない。少数の傑れた人間の頭脳から生まれた、当人たちにとって理想のイデオロギーである。それは理想的であるが故に、人間の本質・本性と馴染まない。したがって、理念・観念の実行段階になると、イデオロギーの発案者と実行者との原理認識の違いが必ず表出する。
理念と無縁の人々の手に国家の運営が委ねられると、教条的原理主義が生まれる。原理の実行の段階において、民生を抑圧し圧迫する面が強まり、民主的な社会に逆行することが避けられない。社会主義は、理念と現実の相剋に悩まされ続ける性質を胚胎していると見るのが妥当だろう。

自由主義国家の矛盾は、本来相容れない概念である資本主義と民主主義が、互いの原理原則を便宜的に調和させているところから生じるが、比較的軋轢は小さい。対立が激化しないのは、この二つのイデオロギーの間に互いに対手を必要とする相互依存の関係があるからである。

自由主義国家の政党は、産業資本の利益獲得を擁護する保守党と、各産業部門で働く労働者たちの生活の安定を擁護する革新党との二大政党に集約される。そして潤沢な政治資金に支えられた前者が与党に、後者が野党になる対立構造が出来上がる。労・資の対立構造は、民主的資本主義国家の常態である。

今日キリスト教が国民の大半を占める国家においては、民主主義の精神は何とか護持されている。これらの国々では、宗教的民主主義社会的民主主義の立場の違いが明瞭で、それぞれを基盤とする政党によって議院内閣制なら国会、大統領制なら議会での議論が行われる。欧米の二大政党はキリスト教精神を共有しているので、両派の対立は穏健であり、協調する場面も少なくない。日本の2大政党は形ばかり西欧先進国を真似ても、その体質は水と油、精神に共通するものがないので、議論は噛み合わず協調できない。

一神教であっても、イスラム教国家には、資本主義と民主主義そしてイスラム教原理主義が三極を形成して鼎立し、調和は無く対立は深まり、先鋭的宗教集団が乱立し、政治的混迷を自律的に解消することがますます困難になっている。

産業資本主義は、自由が保障されていなければ、起業も営業もできない。資本市場の整備や工場建設など投資環境の整備ができなければ、資本の活動そのものが成立しない。資本主義が必須とするものは、相対的な自由主義である。
自由を束縛する全体主義や共産主義・社会主義の下では健全な資本主義は育たない。資本を増殖できたとしても、自由を抑圧する独裁的な異形の資本主義は、発展するに従って国民の自由民主への希求が高まり、その政治制度と経済制度との不整合から生ずる矛盾が、必然的に体制を崩壊に導くだろう。

民主主義は健全な産業資本主義を利する為にあるものである。 
産業は人手無しには成立しない。勤労者の勤労意欲は、家庭生活と社会生活及び消費生活が充足することで増進する。民衆の権利が守られ福祉が充実していなければ、産業は安定的に働く良質な労働力を確保できない。人を安定的に雇用し続けるためには、民主主義が確立していなければならない。

自由主義民主主義は、資本主義を支える基盤である。産業資本が円滑に自己増殖する為には、資本家の事業の自由と雇用の自由、労働者の就労の自由と生活の自由が保証されなければならない。
資本家と労働者の自由を守る自由主義と、人間の社会生活を守る民主主義、この2つのイデオロギーは、近代国家の礎石である。

資本を野放しにすると、富の力で人間性を恣意的に左右しようとする資本の本性が露わになる。資本をもたない庶民の自由は、制度で護られなければ自主的に保全できない。民衆の自由の実感は、消費生活の充実によりもたらされるものが最も大きいから、消費と投資のバランスは常に政治の課題である。

民主主義の真の目的は、資本主義を安定的に維持発展(富の増殖)させる為のものである。民生の向上を第一の目的とするものではない。あくまでも民衆の自由の実感は、消費生活の充実にある。そこにポピュリズムがつけ込まないよう、私たちは注意していなければいけない。

ITやAIによる生産技術と製造技術の進歩は、終局的に工業製品の低廉化と陳腐化を促し、遅からず人々の製品による消費意欲は減退に向かう。消費財への欲求が減衰すれば、生産財の需要も落ち、財はこれまでの神通力を失う。
人々に自由を実感させる消費の対象は、これまでの財の購入から、飲食・医療・服飾・旅行・観光・ギャンブルなどのサービスの購入のウエイトが大きくなる方向へ否応なく向かうだろう。

謂うところのデジタル資本主義は、雇用を失わせ民心を不安に陥れ、社会を退廃に導くものかもしれない。
私たちは、これまで永く享受してきた消費生活とリンクしない、新しい自由の実感の対象を模索しなければならないのだろうか?それが何か?AIは答えをだせるのだろうか?



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