道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

老いの効用

2013年04月03日 | 随想

人が 老いるということには、個人的な面と、社会的な面がある。肉体が衰え病に罹りやすくなるのは個人的な老いで、それまで営々と築き上げたcozycomfatableな社会的環境が失われ人間関係も薄れてゆく。そうなるまいと、それまでの関係にしがみついている例もあるが、所詮人生の下り坂というものは、心身の両面に現れるもので、これを無理に止めようと思っても止まるものではない。それでもなお、自ら老いの坂道を下っていることに気付かないのは、いや気付こうとしないのは、最良の状態を維持したいと願う妄執であり虚栄でもあろう。そのような我執にとらわれていては、老いがもたらす効用はわからない。

  老いはマイナス面ばかりが強調されているが、必ずしもそうではない。老いなければ気づかなかった物事の本質や、それまで知り得なかった、また理解できなかった事柄が、分明になるのは快事であって、老いのプラス面であろう。

若くなければ出来ないことや知り得ないことがあるのと同じように、老いなければできないことや知り得ないこともある。その数は若いときとおなじぐらいかそれを上回るだろう。更に、老人には、懐旧という追憶、若い人に無いretrospectiveな感懐があって、これは老人ならではのロマンチックな世界である。

人間は長生きすればするほど分からないことが増す。もしわかったような顔をして世間を渡っていたら、それは無知というものだ。学者が研究すればするほどわからないことが増すのに似る。 ただ、それに目をつぶって、分かったフリをしている老人が多い。

人が老いるまでに得た知識や体験というものは微々たるもので、老人の目の前には未だ渺々たる果てしない未知の海原が広がっている。それまで渾身の力を振り絞って漕ぎ渡ってきた海域が、正確な位置測定をしたら、実は出航した港から100海里と離れていない内湾だと知ったときの船乗りの落胆は相当なものだろう。それと知らずに大洋を渡りきった気で自己満足している老人は滑稽だ。私たちは皆果てしない未知の大洋を漂い、順番に海に呑まれる定め。同時代の人々と一緒に漂っているから 安心なだけで、その人達の浮いていないない海は、なんと寂しいことだろう。

これまでの人生を振り返ると、神慮の働きとしか考えられないことを多く体験した。老いは、この世は生きるに相応しいことを確かめるためにある。

 

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