サクラの花に心を奪われたのはつい先だってのことなのに、次々と届く春の花の便りに誘われ出かけることが多くなった。花ばかりを愛でに出かけるのではない。この季節ならではの、若葉照り映える野山に心躍らせるものがあるからだ。
多様な春の実相は、視覚だけでなく聴覚(小鳥の囀り、葉擦れ、せせらぎの音)や嗅覚(草木の葉や花の香り)、時には味覚?まで、あらゆる官能を駆使しなければ充分に感知できないから、身はその真っただ中に置くにかぎる 。
久しく訪れていなかった森町の小国神社で、シャクナゲが見頃になっていることを新聞で知り、物見高く観賞にでかけた。シャクナゲの花は、当たり年と外れ年で花着きの落差が大きい。しかも当たり年は数年に一度しか廻ってこない。自生種であれ園芸種であれ、満足できる観賞の機会が多くない植物のひとつだろう。
神社のシャクナゲはもちろん自生でなく植栽されたものだが、200年を超える高い杉林の中は適当に直射光が遮られ通風良く、シャクナゲには頗る好適な環境に思えた。市街地近くでこのような生育条件に恵まれた培地は、多くないだろう。参詣路の両側の仄暗い林内は、白、深紅、ピンクの花々で彩られていた。
参拝を済ませた後、清流に沿う道を辿って社殿裏の境内林を散策した。ひょっとしたらと期待して
いたハルリンドウの花が、陽当たりのよい草地に点々と咲いているのを同行の妻が見つけた。花の女王のような、高貴で優雅なシャクナゲを見たばかりの目にも、この野花の美しさは何ら遜色がない。ハルリンドウよりもっと矮小で目立たないヒメハギの花も、深みのある紫色が 見逃せない。
花にはそれぞれにその花ならではの美しさがあって、他の花で代替が効くものではない。花の個性というものだろう。だから花好きは、一生飽きることなく様々な花を見に動き回る。
「花をのみまつらむ人に山里の 雪間の草の春を見せばや」 藤原家隆
一面に、華やかに咲く花ばかりが花でないことを、鎌倉時代初期の歌人はこのように詠んでいる。
ちょうど其処へ車が来て止まり、中から婦人ふたりが降りて来た。ひとりは片手に空のビニール袋をひらひらさせている 。何か咲いているかと訊かれ答えたが、ビニールの婦人は花に構わず道沿いを注視しながら別の方へ歩いて行った。連れの婦人が、ワラビを採りに来たことを妻に告げた 。
自分にも憶えがあるが、山菜採りに限らず採集というものは人を熱中させる。釣りや狩猟そして採集は、原始の生活を疑似体験することだから、その行為が脳に直接満足感を与えるのだろう。食べることを期待しての悦びではなく、見つけ出して手に入れることそのものが愉しいのだ 。
遠州の人は山菜をあまり食べない。それは雪が積もらず春が早い風土のせいで、この地の山菜の味がよくないからだろう。芽出しのときから陽を浴びているので堅くてアクが強い 。北国の雪溶け期の、湿潤な地表から芽を出す山菜は、柔らかく瑞々しく、同種でも味がまるで違う。大量に採れるから保存して、季節を問わず食べる。したがって、保存法も調理法も発達している。山菜食文化という言葉があるなら、その文化は雪国のものだろう。
本場東北では雪溶けとともに人々が一斉に山に入り様々な山菜を採る。大昔から続いている春の楽しみごとだから、人それぞれに採取地があるのだろう 。今は 他県からSUVで来て大量に採って行く。これが災いして採取禁止になっている地域が多くなっているようだ。仙台に住む知人は、新潟県内の有料の山菜園まで車で出張るらしい。地元では良い山菜は採れなくなったのだろう。
この人が仕事で当地に在った頃は、ゼンマイを段ボール函に数杯採って来て私を仰天させたことがあった。東北ではワラビよりもゼンマイのほうが珍重されると云っていた。
ゼンマイには強烈なアクがあって、普通のアク抜きでは食べられない。食べるためにはアクを煮出したあと天日に曝し、時々掌で捩りながら乾燥させる。これは大変な手間仕事で、老人の居る家でなければ到底作業できない。そのようにして 丁寧に乾燥された自家用のものは、優れた食材に変身し、調理されると佳い酒肴になる。
私は40代までは、春になると川魚・山菜を楽しんでいたが、 今は手の掛かる山菜には飽きて、西洋山菜とでも云うべきクレソンやルッコラを嗜好してい る。クレソンは幕末に肉食の西洋人が本邦へ居住するようになって移入された外来植物で、今や高冷地の沢では雑草化している。それでいて、いざ栽培となると存外難しく生産地は限られている。
佐鳴湖に流れ込む湧水が源の細流でも、春先にはクレソンの生育を見るが、気温が高くなると姿を消してしまう。この草が水温と容存酸素量に敏感なことは、同じアブラナ科のワサビに似る。もしかしたら、ワサビ田で嫌われる雑草はクレソンかも知れない。
ワラビ採りのふたりの婦人の成果は確かめることなく帰途についた。それにしても、貝採りや山菜採りなど、何千年も前の祖先達の採集生活の一端を、春のレジャーにしている私たちの習慣というものは、 不思議でもあり愉快でもある。
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