春を直前に控えたこの酷寒の季節になると、ひと昔以上前に幾度か花を見せてもらいに訪れた〈市内天竜区佐久間町浦川〉に所在する個人のお宅を想う。
それは、その方のお宅の裏山(敷地内)に自生するセツブンソウの花を、中日新聞が記事にしたことに始まる。
当時の〈浦川集落〉の地内には、アズマイチゲやキクザキイチゲの群生地があり、私は以前から観賞に度々訪れていて現地の地理には明るかった。
記事を読んだ2月初めの数日後、そのお宅に伺い、裏山のセツブンソウの群落を観せていただいた。それまで、近郊各地でセツブンソウの群落を観ていたが、ロケーションといい群生の状態といい、卓越した状態の群落だった。
其の家の御当主は、都会の銀行でのキャリアを全うして帰郷、父祖伝来の田畑を耕作管理していた。お茶をいただきながらの問わず語りに、御先祖が「甲州武田の遺臣」だったとの言い伝えを話し始めた。長篠の合戦で敗れた武田勢の落武者のひとりだったらしい。それを裏付けるように、屋敷内には小ぶりながら風化の進んだ宝篋印塔が一基在った。
ちょうどその頃の私は、趣味(好奇心)で長篠の合戦について様々なことを調べていた。特に敗れた武田軍の敗走経路に特別関心が深かった。
当時、主戦場の設楽原から敗軍の将兵たちが甲・信両国に帰還する主要ルートは、大きく分けて2ルートあった。その主要ルートに沿って、武田の将兵の通過の痕跡が今日も遺っているはずと思い、意識して土地の伝承や言い伝えなどを探していた矢先のことで、私はこの偶然に内心驚いていた。
1575年(天正3年)5月の長篠の戦い(設楽原合戦)で、武田勝頼を大将とする武田軍は、織田・徳川連合軍に完敗した。
その方の御先祖は、戦場を辛うじて脱出し、夜闇の伊那街道をこの村まで辿り着いたのだった。村人に匿われて傷を癒し、そのまま土着したものらしい。
帰郷しても惨敗した主家は滅ぶかもしれない。妻子・両親への思いは無論のこと、望郷の念は如何許りだったかと想う。
兎も角、姓の一字を同じ音の別字に替え、この地で家を興したという。
縁もゆかりもない土地での人生の再スタート。敗戦が、その武士の人生を、がらりと変えてしまったことになる。
織田・徳川連合軍に敗れた武田軍の総帥武田勝頼は、現地の属将田峯城主菅沼定忠の先導で、少数の馬廻りと共に設楽原を脱出し、田峰→稲武へと落ち延び武節城で一泊、根羽→平谷→阿智→飯田→甲府のコースで帰還したと伝えられている。
他方討死した宿将たちの配下の将兵たちは、先導もなく散り散りになり、地理不案内の奥三河を脱出するのに相当の難儀をしたことだろう。落武者狩りの目を逃れながら、さまざまな脇道や間道などを辿って、故郷への逃亡を急いだに違いない。
三州長篠〈設楽原〉から、甲州と信州へ落ちる敗軍将兵の敗走路は、侵攻ルートの復路で、ふたつが考えられる。ひとつは大将勝頼の辿った敗走路、もうひとつは設楽原から天竜川沿いに伊那谷へ向かう伊那街道を辿るコース。浦川はこの伊那街道に沿い、戦場の設楽原からは約10里(40km)、徒歩で一日行程である。
後者のルートは、浦川から先が険阻な峠の続く難路で知られていたから、帰還を諦めた将兵も数多く居たと思われる。将兵たちは帰還を諦め身分を隠し、村々に隠れ潜んだことだろう。村人に匿われたりして後に土着した者はかなり居たはずである。
戦いに明け暮れた戦国の世の農民には、合戦における兵役や夫役が課されていた。一家の主をはじめとする壮丁は、領主が参戦するたびに従軍し、死傷することが多かった。戦国時代の農村は、恒常的に男手が不足しがちだったのである。
落武者は不足又は消耗する労働力の供給源として、公式にはともかく、非公式には重用され、共同体への参入は容易であったと推察される。
敗残の将士に身分はなく、何処の農村でも、帰農を希望する将兵には手厚く対応したことだろう。有能な将士などは、旧敵であっても、領主が召し抱えることすらあった。
また武士身分の落武者は教養人でもあり、村人から信頼され頼られこともあった。
この浦川でも、セツブンソウのお宅の御先祖と共に傷つきたどり着いた落武者の中のひとりは、医療の心得を活かし、土着後に近郷の農民たちの傷病を治療し敬慕された。その人の顕彰碑が浦川の地内にある。
このお宅の裏山には、カタクリの花も自生していた。今はご当主も代が替わっていることだろう。
設楽原の歴史的事実は、甲・信軍の敗走路に当たる近郷近在に、このような派生的な事象を、数多く発生させたことだろう。
戦争というものは、人の生命は言うに及ばず人の人生も捻じ曲げ、夫婦や親子の縁も幸福も財産も、何もかも奪ってしまうものだ。だが命永らえた者が少しでも居れば、途絶えることのない生命活動が、次々と新たな人生を芽吹かせる。
人間の生活の営みとは、洵に心強いものがある。
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