道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

楽しいお喋り

2014年02月03日 | 人文考察
人を訪ねた帰りに郊外の喫茶店に立ち寄った。時刻は午後2時頃、駐車場はほぼ満車だった。
 

禁煙席は壁際の対面二人掛席だけが空いていた。横隣は四人掛席で、アラフォーと思しき婦人4人がお喋りに熱中していた。テーブルの上には食事の空き皿、空きカップがあり、彼女らが昼食の時から其処に居ることを示していた。

彼女らはけっして無秩序に喋り合っているのではない。誰かが話題提供者になると、残る3人が相槌役、驚嘆役、批評役と、各自役どころを交替しつつ話を盛り上げる。別の誰かがまた新たな話題を立ち挙げると、他の3人はすぐそれまでと役どころを替えて場に活気を吹き込む。かくしてお喋り(任意テーマ性パネルディスカッション)は際限なく続く。

テーマは前の話題と何の関係も脈絡もなく提示される。その場に居ない知人の噂、ランチや好きなスイーツの話、子供の学校の情報、ファッション、etc.・・・対象は多岐にわたり、標的はアトランダムに現れる。新たに話題が提示されると、新たな関心が湧き起こり、自動小銃の撃ち合いにも似た会話の応酬が始まる。その精力的なことは驚くばかりだ。各自の頭の中の弾倉にある情報(事実とは限らない)と情念のすべてをひととおり撃ち尽くすまで、銃撃戦は激しく続く。これが女性たちのお喋りというものかと、半ば呆れ半ば感心して目を瞑り、内心同意したり反撥したりしながら聴いていた。

彼女たちにとっては、話題を提供することが大事で、談話の内容そのものには全然拘泥しないようだ。いかに多くの話題に触れたかが満足感を左右するのだろう。したがって、彼女らの会話には間というものがない。それぞれの意見、談話について、互いに考える時間を必要としていないと知れる。誰かの発言が終わるか終わらぬうちに、次の発言者の言葉が続く。発言をよく聴いているのかどうか心配になる場面もある。

個々の話題が結論に導かれることはほとんどない。云いたい放題を云って結論を出さないのが流儀らしい。これなら、各人は自分の発言に責任をもたなくてよいから何でもしゃべり放題しゃべれる。勝手に喋り合って互いに脳内や胸中がスッキリすればそれでよいのだろう。メンバーの大方が喋り疲れるまで、楽しいお喋りは延々と続く・・・・・。

女性というものはお喋り好きで、それに閉口させられている男性は多い。しかし、男たちが気取って謂うところの談論風発だって、女性たちから見れば単なるお喋りでしかない。所詮男は女から生まれ育てられるもの、質は違っていてもその風を受けないでは済まされない。だから昔の人は一定の年齢になると男女を引き離し、それぞれに必須の教育を施した。年配の男性が濫りにお喋りをしないのは、彼らの父祖の時代の教育の影響がまだ家庭に残存しているからだろう。

現今は教育期間のほとんど全期にわたって男女共学だから、お喋り好きの男性は殖える一方であろう。そうでなければ、コンパなどあれほどの活況を呈することはないと思う。フェイスブックもツィッターも、お喋りの場が増えたということで、人間の本性に適っているから隆盛を見ている。

隣席のお喋りはまだ精力的に続いていたが、聴いている方はかなり疲れてきた。私は滅多にない観察の場を与えてくれた、4人のご婦人に心の裡で感謝しながら、伝票を掴み席を立った。


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