硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

無題。

2014-07-02 21:32:23 | 日記
ここ2年程の間に高齢者から戦時下での話を聞かなくなったように思い、年齢を調べてみると、終戦を迎えた時に今の高校生くらいの人がメインになってきた。

時間は常に未来に向かって流れているのだ・・・。

僕が介護職を続けていた理由の一つには、「戦中」の貴重な体験を人の声を通して聴けた事があります。
時には感動し、時には悲しんだりと語り部を通しての貴重な追体験は僕にとってとても有意義なものでした。
しかし、語ってくれた人たちの中に戦争体験を語り終えた後「こんな話は誰も聞いてはくれなくてねぇ。」と言われたかたが何人かいらっしゃって、当時それがどういうことを意味しており、どう返事をしていいか分からなかったので、ただ「そうなんですねぇ。」と言って同意していましたが、常になぜなんだろうかと言う疑問が付きまとっていました。

その頃から不思議と少しずつ読書量が増えてゆき、次第に視界が広がって行くと、それがどういう意味を持っていたのかぼんやりとではあったが理解できるようになり、辿り着いた答えの一つが、戦争が終結した後に多くの人達がその時間を「否定」する事を選択したからではないだろうかというものであった。

しかし、それは日本特有の文化のなかで培われてきた人柄というものが大きく作用し、また、そうすることで途切れることなく生き延びてきたのだと考えると、おそらく、江戸から突然ちょんまげを「否定し」明治に移った時もこんな感じだったのではないだろうかと推測ができる。

さて、昨日、集団自衛権の閣議決定がなされ、今日の新聞に大きく報じられ様々な人が意見をのべていた。

しかし、此処にも当事者が存在しない。そして何かが足りない気がしました。

それは、僕個人が思うのは、人が周りで理不尽な暴力によりバタバタ死んでゆく状況が身体にしみ込んでいる人達が思う国が主体となって行う武力行使と、体験を介せず武力行使を行おうとする人達の言葉の重みに雲泥の差があると感じ、実体験を通している人達の「戦争はいけない」という言葉には隙がないからであるのではと感じたからです。

それは、身近な人が戦争によって命を落とす事によって、深く辛い悲しみを、自身に与えられた時間の中で負い続けて行かなければならない事を知っているからであり、それは何十年と言う時間を経ても、当時の出来事を思い出しては涙してしまうほど深い悲しみなので、話の聴き手にも強く印象深く記憶に残る。

しかし、人の生命に限りがある以上、心の痛みを伴った記録を保管するには想像力を働かすしかない。

そう考えると「思慮の欠如。」これが人類にとって最も手ごわい相手なのかもしれない。

その手ごわい相手を国会がどう審議してゆくのか冷静な目をもって見届けたいと思います。

コメントを投稿