『キネマの天地』(86)(1986.8.6.銀座松竹)
松竹50周年記念作。盆暮れ恒例の寅さん映画を休み、脚本に井上ひさしと山田太一を迎えた。そして、いかにも山田洋次らしくそつなく撮っているのだが、そこにあからさまな大船調の踏襲を感じさせられ(もちろんそれが狙いではあったのだろうが)、かえって松竹映画の欠点を露わにしてしまった感がある。
確かに、昭和初期の古き良き映画黄金時代に対するノスタルジーは強く感じることはできるのだが、例えばトリュフォーの『アメリカの夜』(73)で描かれたような、映画作りの中で生じるさまざまな喜怒哀楽、その中から生み出された一本の映画への愛着といったものが、あまり伝わってはこない。それ故、日本映画の悪い癖である人情話に終始した印象を受けるのである。
もともとこの映画は、松竹配給でありながら、舞台はそっくり東映にさらわれてしまった『蒲田行進曲』(82)に対抗して、完全な松竹映画として、映画製作の舞台裏を描くというところから始まったものだが、そこには、描かれた時代の相違もさることながら、山田洋次と深作欣二の映画作りに対する考え方の違いが出ているのではないかと思う。
本来、映画製作の現場なんてきれいごとでは済まない雑然としたものであるはずなのに、ノスタルジーと人情だけで描こうとしたところに、あまり毒を持たない山田洋次の弱点が露呈された気がするのだ。
などと公開時は思っていたのだが、30年後は…。
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/da7dffec4b054eee90dfc062c634aa9a
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